5月3日(水)-1

いつものように、6時45分、携帯のアラームで起きる。

洗面所(共同である)で含嗽し、部屋で煙草を吸い、仕度をして、朝食に降りる。ちなみに、この旅宿では、部屋で煙草が吸えるのである(^^)v なんと意識の高い旅宿であることか!

朝食である\(^o^)/

御飯(朝から3杯)、海草と豆腐の味噌汁、塩鯖、目玉焼き&ハム&キャベツ、とろろ、塩昆布、沢庵漬け、味付海苔、で、ある♡(^^)v

食後、外に出て一服。八戸の朝は、抜けるような青空の好天気。空気も気持いい。

一旦部屋に戻り、布団を畳んで、PCや小物類を片付ける。

外行きに着替え、散歩に出る。

前回(?)も書いたと思うが、日本全国が画一化されていき、郷土色、地方色が希薄になっていく昨今、その薄れ逝く郷土色、地方色を色濃くとどめているのは、意外にも、銀行ではないだろうか。

ロンよりツモ、じゃない、論より証拠、この「青い森信用金庫」の看板なぞ、まちがっても、大阪では見られまい。

ありそうなようで、ほんとうにある銀行である。

日本では、小説や映画に出てくる新聞は、決まって、「毎朝新聞」であり、大学は「東都大学」であるが、そんな新聞も大學も、実在しないことは、みなご承知である。

ところが、いかにも小説や映画に出てきそうな、いかにも実在しなさそうなこの銀行は、このとおり、実在するのである。

おなじ東北なのだから、青森県八戸市に、秋田銀行や岩手銀行があっても、不思議ではない道理である。

しかし、遠い関西近畿、大阪から来た身にしてみれば、いささか、奇異の念を抱かざるを得ない。

しかし思えば、そんな奇異の念を抱くのが、旅の面白さのひとつであろう。

「みちのく」とは、「道の奥」の謂いだそうである。それゆえ、「陸奥国」と云う地名が存在したのであろう。

しかし、京の都からすれば辺境の、まさに「道の奥」であろうが、平泉寺金色堂にも象徴されるように、奥州には、京とはまた違った、独自の文化が、絢爛と華開いていたのである。

青森なのだから、とうぜん、「青森銀行」もある。

お分かりだろうか?

たもとに並んでいるのは、お地蔵さんである。

こうした、ちょっとした遊び心が、町の景色をゆたかにするのである。

お帰りなさ~い♡

所属事務所との確執、独立、と、大変な苦労と困難、心ない連中の批難中傷に、なんども心が折れ、挫けそうになったことだろう。

しかし、「あまちゃん」を大ヒットさせた彼女を、東北の人たちは忘れてはいなかった。

能年ちゃん(のんちゃん)の屈託のない、明るい笑顔は、あの未曾有の大災害に傷ついた東北の人々にとって、復興の明日を照らし出す、希望の輝きとなったことであろう。

スキャンダルの渦中にあるタレントをイメージ・キャラクターに迎えることは、おカタい銀行にとっては、タヴゥーであろうはずなのに、そんなことに頓着せず、苦境にある彼女をイメージ・キャラクターとして温かく迎えた岩手銀行の英断に、大いなる拍手を捧げたい。

以前にも記したと思うが、八戸の町角には、このような標識が、いたるところに立っている。

地名を表すとともに、その由来、歴史を記してある。

こうして、町の伝統を識るとともに、愛郷心が育まれるのである。

八戸の町角には、日にちの名がついたものが多い。

これは主に、その日に市が開かれたことに由来するようである。

なるほど、現在でこそ、スーパーのコンビニの、また商店街などでも、日々の食糧や衣料、薬品などを購入することができるが、はるかな昔(と、云っても、たかだか二、三百年前)には、そんなことはなかったのであろう。

日を限って定期的に開かれる市で、人々は生活必需品を購入していたのであろう。

そんな、往時の庶民の生活を、髣髴させてくれる標識である。

鹿鳴館ではない。

以前にもご紹介したと思うが、この明治大正風の建物が、いま現在でも、営業しているのである。

一度だけ、昼食を食べに入ったことがある。店内も時代風で、こんな建物で、例えば、明智小五郎の探偵譚などを撮ってみれば、雰囲気があっていいだろう、と、思われた。

この道をまっすぐ行くと、八戸市庁舎、八戸市民ホール、そしてお馴染みの、三八城公園に到る。

そのあたりから下り坂になっており、そこを下りると、本八戸駅に着くのである。

 

 

さくら野百貨店である。

このあたりでは、三春屋と並ぶ、二大百貨店である。

この道をまっすぐに行くと、その三春屋がある。

三春屋の手前にあるMOS BURGERである。

昼間はたいがい、ここの2階で、本を読んだり、PC を叩いたりして、時間を潰す。

三春屋の横にある標識である。

ちなみに三春屋の横にあるのは、ファスト・フードのお店で、中高生を中心にした若者たちの姿をよく見かける♡

近くにある岩手銀行(通称:いわぎん)の支店にも、もちろん、能年ちゃん(のんちゃん)のポスターが張ってある♡ いや~、八戸は、いい町だわ~(^^)v

三春屋の前を通り過ぎ、左手に曲がってしばらく行くと、この標識がある。

「鳥部屋」ではない。「鳥屋部」である。念のため。

さて、さきほどの「鳥屋部町」の標識から約7分ほど歩くと、この坂に差し掛かる。写真でもお分かりいただけるかと思うが、けっこうな坂道である。

エスカレーターならともかく、日頃坂道を歩き慣れていないわたいとしては、けっこうな坂道であった。

この坂の名前と、命名の由来である。

車道を挟んでこの看板と反対側に――

神社への入り口がある。長者山神羅神社である。

神羅、と、云えば、神羅三郎義光――八幡太郎義家の弟、甲斐武田家の祖――である。

この神社への参詣(?)が、今回の散歩の目的である。

石段の脇に咲いていた蒲公英である。

こんな景色には、やはり漢字で表記するのが相応しいようである。

石段を登りつめたところにある案内板である。

ここにも、義経北行伝説の由緒があるのである。

鳥居口から、拝殿、と、云うか、社殿をながめたところである。

石段を登りきったところは、広い空地になっていて、右手に、おそらくは神主さんご一家のであろう、私宅と思しき家が見える。

さて、この鳥居をくぐって境内に入ると――

由来記、が、ある。

さらにつづいて、御祭神が記されている。

そして――

拝殿、と、云うか、社殿である。

八戸名物「えんぶり」の際には、「八戸市と周辺の市町村から集まった30組を越える『えんぶり組』が社参の後に隊を組んで八戸市中心の商店街や近郊農村部を門付けして廻り、その後20日までの4日間にわたって市内各所で」えんぶりを演じるのである(Wikipediaより)。

その境内で、なにやら仕度をしているので訊いてみると、今日11時から、戦没者慰霊祭が催される、とのこと。戦没者慰霊祭が5月3日とはめずらしい。それとなく訊ねてみたが、理由は聞けなかった。

社務所で御守を買い、御神籤を引いて帰る。途中の枝に、大阪の神社で引いた去年の御神籤を結びつける。大阪の神社の御神籤が、八戸の神社の枝に結び付けられるのも、面白い縁だろう。

さて、この神社を後にして、例の昌益坂を逆に下り、町に向かう。

途中にのびのびした空気の漂う広場がある。

この広場でしばし眺望と、吹き渡るさわやかな五月の朝風を愉しんだあと――

大工町を通り――ちなみにこの大工町は、先に述べた鳥屋部町と同じ通りにある――

町中(?)に戻ると、さすがに喉が渇いている。

門のコンビニ(Family Mart)で缶コーヒーを買って、ちょっと一服

( ´ー`)y-~~

おそらくは、青年団――消防団(?)――の屯所、詰所ででもあろうか。

その傍らに、この標識がある。

さて、わたいがこの日の朝の散策の、第二の目的地としていたのが――

八戸市立図書館である\(^o^)/

Wikipediaによると、「1874年(明治7年)に設立した八戸書籍縦覧所を前身とする現有日本最古の公営図書館である。公立公共図書館としては最古の松江書籍縦覧所が設立されたのに続き、私立公共図書館としては最古の出雲大社書籍縦覧所が八戸書籍縦覧所と並んで設立されたが、このうち現在まで存続しているのは私立公共図書館から公立公共図書館に移行した八戸市立図書館のみである」と、云うことである。

明治7年、と、云うと、いわゆる“征韓論争”、明治六年の政変が生じ、西郷隆盛をはじめ、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣らの参議が辞職した翌年である。

この八戸市立図書館は、それほどの歴史を有しているのである!

その由緒ある八戸図書館でしばし涼んだ後、ふたたび外に出る。

路傍に、こんな木が植えてある。

この木は――

と、云う。

この看板にも記されているように、この木は、「芦屋市との友情の木」である。

なぜかと云うに――

と、云うわけである。

インディ・ジョーンズではない。わたいの影である(陰の声:だれが間違うか!)

見苦しいかも知れないが、ご寛恕願いたい。

図書館を出てしばらく行くと――

神社がある。

これはなんだろう。入って右側にある建物である。

神社を抜けて大通りに出る。

右手に折れると――

廿三日町である。

ここをまっすぐ(東に向かって?)行くと――

cinoである。

animateや映画館、喫茶店、家具屋、リサイクル・ショップ、等々が入居している。

この道をまっすぐ行くと、三春屋、MOS BURGER、“はっち”、さくら野百貨店、と、朝来た道を逆にたどることになる。

この道を行くと、先ほどの広場を経て昌益坂にかかり、長者山神羅神社にいたるのである。

寺横町を通って――

ご存知だろうか? あの『蝶々夫人』で有名な三浦環と並ぶ日本のプリマドンナ、原信子さんの生誕の地である。

意外な人物が、この八戸とは、縁があるようである。

片山潜は、1906年(明治39年)に日本社会党結党に参加した、有名な社会主義者である。

昨日の写真は、暗くて、しかも光が反射していたため見にくかっただろうから、ここに再掲する。

ついでに、と、云ってはなんだが――

こちらも再掲しておく。

「小百合通り」の由来である。

写真も再掲しておく。

夜とはまた一味違った味わいがある?

鷹匠小路を出て右側にあるのが、この標識――六日町(肴町)――である。

ちなみにこの建物は、パチンコ屋であり、その前にはバス停がある。

この前の道を渡って、「みろく横丁」に入る。

以前に、昔懐かしい郵便ポストをご紹介したと思うが、「みろく横丁」には、こんなものもある。

もちろん、現在は使用されていない……ハズである。

昼の「みろく横丁」である。

例の赤い郵便ポストが、電柱の向こうに、重なって見えている。お分かりだろうか?

……だ、そうである。

この看板は、「みろく横丁」の、大通り側――「はっち」やさくら野百貨店のある側――の入口門にかかっている。

その大通り側に出ると、「はっち」を目指して、通りを歩いてゆく。

中に入ると、右手のホールで、LIVEが催されている!

とりあえず、受付の人に許可を得て、写真を撮った。スマホのカメラのためか、写りが悪い。

ホールの入口に、看板が置いてある。

……だ、そうである。

寡聞にして、知らない人である。

とりあえず、もう一枚。結構ノリのいい、ポップな曲調が多いようである。

写真でもかすかにお判りかもしれないが、意外に客が多い。

だから、と、云うわけでもないのだが、とりあえず、二階に上がる。

以上、2階からのショット、三葉である。

「はっち」には、こんなものが飾ってある。以前にも載せたかな?

説明板である。「八戸三社大祭」で使用される山車の、ミニチュアである。

「はっち」を出て、本八戸駅へ向かう。

本八戸駅へ至る坂道の途中に、手作りのファンシー・ショップを討っている店がある。そこへ向かうつもりである。

途中、もう一軒の手作りショップがあり、面白そうなので、中に入ってみる。

おばあちゃんが店番をしていた。話を聞いてみると、そこの製品は、八戸在住の主婦の方が作られたものばかりだとか。
名刺(カード)入れと、ポケット・ティッシュ入れが目を引いたが、なにも買わずに出た。
途中、ひょっとしたら、お目当ての店は、水曜は休みだったんじゃなかったかな? と、思ったら、案の定、休みだった。
やむなく引き返し、おがみ神社へ。

おがみ神社である。この漢字、書くことはできるかも知れない(「雨」冠に「龍」であるから、おぼえやすい)が、読むことはできまい。

なにやら深い由緒、曰因縁のありそうな名前である。

深い由緒、曰因縁、と、云えば、ここおがみ神社にも、いわゆる“義経北行伝説”が語り伝えられている。

これがその説明板である。

神社の人(だろう)が、車を洗っていたので、義経北行伝説にかこつけて話しかけてみた。この4/30に、『世界不思議発見』のスタッフが、義経北行伝説のことで取材に来たと云う。2時間ばかりいて、自分も取材を受けた、と、云う。6/3放送らしい。パンフレットを貰い――

社殿に参詣して――

小社である。

この前で一服し、三八城公園に向かう。

三八城公園前、八戸市公会堂前にある、八戸城跡碑である。

以前にも記したと思うが、三八城公園から八戸市公会堂、八戸市庁舎、ならびにその前の広場を中心とした一帯は、かつての八戸城の跡地なのである。

「三八城」と云う地名は、「三戸郡八戸城」と云う意味である。

説明板ならびに当時の絵図である。よほど拡大しないと、読めないかも知れない。説明文と絵図と、別々に撮ればよかった。不覚である。

もはやすっかりお馴染み(?)、三八城神社である。

場所は違うが、いかにも、“森の社”と云うに相応しい佇まいである。

好い天気である。空気は心地好いが、これだけの好天気となると、さすがに汗が滲んでくる。と、云っても、もちろん、大阪ほどではない。

三八城公園では、何人かのグループが行楽に来ていた。

好天気に恵まれて、涼やかな風が吹きわたり、いかにも長閑な、行楽日和である。

さくら三葉、で、ある。

このあたりの桜は、大阪のそれとは違って、ソメイヨシノ系と云うよりは、しだれ桜系である。

この築山の上に、八戸藩祖:南部直房公の銅像がある。

築山を麓をうるおす、ひょうたん池のせせらぎである。

そのせせらぎをのぞき込むかのような花木が美しい。

三八城公園で、長閑に安らんだ後、昼食を食べに戻る。

祝日のこととて、いつもの「むぅ」はお休みである。

そこで入ったのが――

「新そばや」である。

夕方に撮ったためシャッターが降りているが、わたいが昼飯を喫したときには、もちろん、開いていたのである。

自他ともに認める大食漢のわたいが驚くくらいの量の天丼である。天婦羅の量がハンパなく多く、御飯の量が少ない。と、云っても、御飯も茶碗1膳分くらいは、あるのである。

量ばかりではない。山と盛られたこの天婦羅の、海の幸、山の幸の、なんとも美味であることと云ったら……。魯山人もこの味には、舌鼓を打つに違いない。

昼食を終え、店を出て、隣の「まちぐみ」をのぞく。

「まちぐみ」とは、「まちぐるみで、この八戸の町を元気にしていこう!」と結成された、若者たちの組織である。

八戸を愛し、八戸の人々を愛し、八戸に誇りをもち、八戸の良さを知って欲しい、と願う、アツい魂の集まりである。

昨秋八戸に来たとき、その「まちぐみ」の組長さん(?)にお会いし、この地でアトピー性皮膚炎と云う業病を治してくださった、と、云うだけではなく、以来この地を訪れて、この地の自然人気に触れ、すっかりこの地に魅了されたわたいとしては、ぜひとも、この「まちぐみ」に、なんらかの形に参加したいもの、と、その思いを述べたところ、

「いや、ありがたいことです。うれしいことです」

と、おっしゃっていただいて、すぐにも組員(??)にしていただく手続きを取ってくださろうとしたが、いささか思うところがあり、そのときは断念したのである。

今回はその悲願(???)を達成せんものと意を高くしてガラス扉を開き、中に入って行くと、若い男性二人が応対してくれた。

経緯を話すと、大いに驚きかつ喜んでくれた。Tシャツを買い、「組員」にしてもらおうと思ったが、今日は「組長」さんがお休みだと云うので、明日また来ることにする。

「まちぐみ」の事務の横には、こんな自販機が据えられている。

大阪にあってもおかしくないような、面白い自販機である。

「はっち」に向かう。

2時から行われる、大木はるみさんのステージを見学するためである。

なかなかの歓迎ぶりである。

それでは、以下、大木晴美さんの、ステージの写真を――