9月23日(水)

6;45携帯のアラームにて起床。
ここのところ、快適な寝覚めが続いている。
やはり2日目(3日目?)に爆睡したのが効いているようだ。あれで旅の疲れがとれた。

当然、三杯飯、である。

いったいに寒冷の地は、米が旨い。富山福井新潟などの北陸地方、秋田岩手青森などの東北地方で産される米は、日本全国で良米として重宝されている。

味噌もまた、寒冷の地で産されるものが旨い。

この旅宿で供される御飯と味噌汁も、他ではとても味わうことのできない、まさしく、絶品である。

かてて加えて、お魚も旨い。さすがに漁港の地、である。

朝から三杯飯になるのも、無理からぬことではあるまいか。

さて、前にも云ったように、わたいはなにも、旨い飯を食いに、八戸まで来たわけではない。

本来の目的は、皮膚の治療である。

そんなわけで、朝食後、部屋に戻って歯を磨き、仕度をして旅宿を出る。
サンクスでアイスコーヒーを買い、病院へ。
シャワーを浴びて保湿薬(O2とM)を塗る。
肌着は治療後まで着なかった。
診察時、指がなぜ悪化するのか、原因を訊かれる。
原因把握は間違っていないようだ。
今後は水仕事(食器洗い、拭掃除等)の後、Feinを塗っておくように、云われる。

一旦旅宿に戻り、荷物を置いて外出。

出しなに宿泊客の母娘と会う。

まだ小さい娘さんがアトピーで、お母さんも困り切って入ると見えて、いろいろ話しかけてきた。

どの病気もそうであろうが、この病もおなじく、他にはうかがい知れない苦しさがあるものなのである。

「むぅ」に向うと、店の人が庭いじりしていた。訊いてみると、今日も休みだそうである。
仕方なく街中へ向かい、「居酒屋弁慶」で八戸せんべい汁の昼食。

で、これがその、せんべい汁である。

お昼をいただいたお店である。

煙草屋でキャメルを2箱買って、さくら野買物。
最初三春屋へ行ってみたが、確認すると、前回のよりかなり高いので、さくら野をあたってみた。こんなとき、スマホにデータを残しておくと便利である(いささか、セコいが……(^_^;))
その後例によって、MOS BURGERへ行き、収支と日記を記入。
旅宿に帰って晩食。

カンパチのカルパッチョ、蛸と帆立とミョウガの合わせたの!

一人だけの食事とあって、“特別メニュウ”だそうである。いわゆる“ろ~りぃ・すぺしゃる”か?

イカの姿焼きは、自他ともに認める(?)大食漢(??)のわたいが、唯一、キライで、食べられない献立である。

ところが! この旅宿のイカだけは、美味しく食べられるのである!

月並みな感想だが、やっぱりホンモノはいい! のである!

食後、散歩。
何処かで猫の声がする、と、ふと見ると、スナックと思しき玄関に、一匹の猫が繋がれている。おそらく呑みに来た客の飼い猫で、入店できずに、玄関に繋がれているのだろう。
人恋しげなその声にほだされて、少時一緒にいて、喉やら頭やら、背中やらをさすってやっていた。

「おぉお、入れてもらわれへんのか?」

「ご主人さんは? 中でイッパイ、やってはるんか?」

「かわいそうになぁ。ここまで一緒に来てなぁ。中入って、みんなと一緒に、ご飯、食べたいわなぁ」

そう云って、頭や喉や背中やを撫でるたびに、目を細めて、ゴロゴロと喉を鳴らす。

なにやら、その場を去るのが、切なくなった。

ときおり、入口の踏段を飛び下りようとしたりする。

まるで、

「ありがとう。大丈夫だよ。ぼくは元気だよ。ホラ!」

と、云わんばかりに……。

なんともまぁ、いじらしい……。

が、いつまでもそうしているわけにも行かない。

後ろ髪を引かれる思いで立ち去った(前にはないが、後ろにはちゃんと、髪がある)。

 悲しげな猫の声を背に歩いていくと、妙に顔がかゆい。かゆい、と、云うより、なにかがまつわりついているようである。もしや、と、思って、明るいところで確認してみると、やはり、手袋に猫の毛が……。

近くのコンビニに入って、洗面所の鏡で、可能なかぎり、顔についた毛をとったが、それでもなにかムズムズする。困ったものである。
と、自分のうかつさに苦笑しつつ、しかしああ悲しげな声で鳴かれていたら、見過ごしも出来ないじゃないか、と、自分に言い訳しつつ歩いていき、さくら野の交差点で旅宿に戻ろうとしたが、まだ早かろうと、三春屋方面に向かうことにしたのが、なんと幸運だったことか!

さくら野百貨店のすぐそばに、「はっち」という建物がある。

正式名称を「八戸ポータルミュージアム」と云い、八戸における新たな交流と創造の拠点として、賑わいの創出や、観光と地域文化の振興を図りながら、中心市街地と八戸市全体の活性化するため、2011年2月11日にオープンした施設である。
八戸には、人、もの、食、文化などの、すばらしい財産がたくさんある。それらを新たに見つめ直し、受け継がれてきた良き伝統を保持して新たなる世代に引き継ぐとともに、新しいものをも果敢に取り入れ、育み、守り育て、もって八戸の魅力を各地に発信せんとする、創造文化センターである。
「はっち」は施設であるとともに、それ自体が、「市民がまちを想い、まちを動かす」プロジェクトでもある。
「はっち」と云う愛称は、公募から生まれた。八戸の「はち」を親しみやすくしたものであり、また、卵のふ化や出入口などを意味する「hatch」にちなみ、八戸の玄関口という意味がある。
八戸を訪れる人は、ここ「はっち」で八戸の情報を手に入れて、まちなかや観光地を巡られるとよろしかろう。

で、その夜、その「ハッチ」で見たものは――――

いとも艶やかなベリーダンスであった「なんで今頃、こんなところで、ベリーダンスが⁉」
そう思いながら中に入り、受付けで訊いてみると、
「東北大震災の復興支援チャリティーなんです」
と、云う返事。
なるほど、ふと見ると、小さな看板が置いてある。

引き上げてきた方にお話を伺ってみると、東北大震災のチャリティーと云うことで、日頃は八戸と三沢、別々に活動しておられるみなさんが、この日は合同で、それぞれのベリーダンスをご披露くださっているのだとか。

ベリーダンスなら、映画『OO7/ロシアより愛をこめて』で観たことはあった。また、小説『ボガートの顔を持つ男』でも、ベリーダンスの巧みな描写があった。
しかし実際の、本物のベリーダンスを観るのは、これが初めてであるその感想は、と、云うと…………
月並みで申し訳ないが、
「やはり、本物は凄い!」
の、一言に尽きる
失礼ながら、ベリーダンス、と、云えば、中近東の、扇情的な、官能的な踊り、もっと露骨に云えば、男性の劣情を刺激する、エロティックで、官能的な踊り、と、しか、思っていなかった。
あさはかだった。精一杯言い訳しても、一面的であった。
なるほど、官能的でもあろう、扇情的でもあろう。
しかし自分が目の当たりにしたベリーダンスは、その意味合いが、まるで違っていた。
若々しく、情熱的で、かわいらしく、生命力にあふれ、健康的なエロティシズム(“エロティック”なのではない)が、充溢っていた。
第一、アップした写真を見ていただいても分かるとおり、この細い身体で、よくもまぁ、あれだけ激しい動きができるものだ、と、感嘆する。
ただに細いだけではいけない。細いながらも、グラマラスな姿態を保たねばならないのである。
そして、先述した、激しい動き……。ただ身体を動かすだけではない。激しく動く部分と、静かに止まっている部分との対比を見せねばならない。これはもう、まさに、神業である。
この美しい姿態を保つための日々のご苦労と、これだけの激しい動きを習得すための弛まぬレッスンとを想像すると、肌に粟立つのを禁じ得ない。
しかも、それだけではなく、選曲から振付に到るまで、みなさんが話し合って、みなさんでお決めになられる、と、云う。

伺うところによると、一口に、ベリーダンス、と、云っても、その表現はさまざまで、吾人が先入観を抱いていたような、中近東の音楽を用いる場合もあれば、アメリカン・ポップスで舞う場合もあり、インドや、東南アジアの音楽を用いることもある、と、云う。
なるほど、どの分野に限らず、それぞれに、傍ではうかがい知れぬ奥深さと云うものがあるのである。

この日最後に演じられたのは、“剣の舞”。

五穀豊穣を祝う農民の祭りと、邪を討伐する剣士の姿をイメージしたものである。

宴終って、舞終えて、みなさんでの集合写真である。

それとは別に、勇を鼓して、お願いして、撮らせていただいた。

美しき、麗しき、四美神であるかわいらしくて、明るくて、しかも、ご覧のとおりのセクシーな衣装で、ホン傍らにいらっしゃったのである写真で見ると、堂々とした貫録の演技であるが、傍におられると、わたいの肩くらいの小柄な方である。
よくもまぁ、劣情の波に流されなかったことだわい、と、そのときほど、自分の理性の強さに自信を持ったことはない⁉

この日の、このイヴェントは、先述したように、東北大震災の復興支援チャリティーである。
忘れてはならぬ、と、思いつつも、遠き関西に居住する身としては、いつしかその思いも風化していく。
しかし、現地の方たちには、まだ震災は終わっていない。
いまだに仮設の住宅に住むことを余儀なくされている方たちがいる。
いまだに懐かしき故郷に帰れぬ方たちがいる。
秋にトンボを追い、夏にメダカを掬い、手をつないで一緒に学校から帰った子どもたちが、いまはバラバラに離れて暮らし、教科書やノート、鉛筆やコンパス、絵具やパレット、三角定規に分度器、そんな学用品も思うに任せず、夏は暑く冬は寒いプレハブの仮校舎で、それでも懸命に勉強している。

そんな子どもたちに、少しでも役に立ちたい、と、有志の方々が企画されたのが、今回のステージである。
素晴らしいステージを拝見できたことに満悦の感動を味わうとともに、いつしかあの震災の記憶から遠ざかりつつある自分を恥じる。
繰り返す❗ いまでも、あの震災は終わっていない。
あの震災に遇われた方々が、同じ震災に遇った子どもたちのために頑張っておられるのに、あの震災に遇わなかったわたしは、いったいなにをしているのか⁉

義捐金を入れた箱を手にして、お礼の挨拶に回られた子どもさんは、ほんとうにかわいらしい、あどけない子どもであった。
ひとりは小学校の低学年、もうひとりは中学年だろう。
「ありがとうございました」
二人で声をそろえて、元気に挨拶する。
「上手だったね。すごい、うまいね」
と、云うと、
「ありがとうございます」
嬉しそうに笑ってうつむく。
「いつ練習してるの?」
「ンと、学校終ってから」
「水曜と土曜に練習してる」
「(大人の)みんなと一緒に練習してるの?」
「うん」
「すごいなぁ~、大人の人たちと一緒に練習してるんだね」
「うん」
恥ずかしそうに笑って、去っていった。
この子どものために、同じような他の子どもたちのために、“大人”のわたしは、いったいなにができるのだろうか⁉ なにをしているのだろうか⁉
考えると、恥ずかしくなってくる。
でも、なにか、できるはずだ❗
ちょっとでもいい、ささいなことでもいい、ムリしなくていい…………。
自分にもできることが、きっと、あるはずだ…………。
旅宿に戻りながら、町を吹く秋風が、なぜかあたたかく感じられた、その日の夜であった。