人物往来

2017年

9月

14日

スターリン&レーニン

スターリンが居酒屋にやって来た。

「へい、らっしゃい。お連れ様は何人さまで」

「レーニン様だ」

2017年

9月

08日

シーザー・ジョーク

話はグッとさかのぼって、古代ローマ共和国──

ある日シーザーが、その側近を引き連れて、喫茶店に入ってきた。

すでに独裁的傾向を示しはじめていたシーザーは、席に着くなり、側近たちの飲み物を勝手に注文しはじめた。

「俺にはブルー・マウンテンを頼む。キャシアス、おまえ、サントス。アントニー、おまえ、キリマンジャロ。ブルータス、おまえ、モカ」

2017年

9月

01日

田中総理

田中総理、と、云えば、大方の人は角栄氏を想起されるであろう。

しかしここで述べるのは、戦前に総理を務めた、田中義一という人物のことである。

山口県出身の陸軍大将で、いわゆる長州閥の代表的存在である。

大正十四(一九二五)年に政友会の第五代総裁となり、昭和二(一九二七)年の四月二十日から同四(一九二九)年七月二日まで、第二十七代・十六人目の総理大臣として、内閣を組織した。

この田中首相が、東北地方を巡遊したときのことである。

群れ集った聴衆の一人に田中首相は、気さくに声をかけた。

「やあ、どうかね。お父さんはお元気かね」

その男は恐懼極まって、

「あいにく、父は先年亡くなりました」

と、答えた。

田中首相は、

「やあ、それは残念じゃったのお」

と、いかにも残念そうな表情で、その男の肩に手をかけた。

後で秘書官が、

「総理はあの人のお父さんと懇意だったのですか」

と、問うと、

「いや、オラは知らんよ」

との返事。

秘書官は訝しげに、

「それにしては親しげに話しかけられておられたではありませんか」

「そりゃあキミ、息子や娘、女房をもたん者はおっても、父親をもたん者はおらんからのお。訊いてみただけのことじゃ」

2017年

7月

28日

西園寺公望

昔、西園寺公望と云う人がいた。明治末期に内閣総理大臣をつとめた人である。

その姓名からうかがわれるように、彼の出自は、やんごとなきお公家さまである。

その西園寺氏が正式に首相の印綬を帯び、第一次内閣を組織したのは、一九〇六(明治三十九)年のことであるが、彼はそれ以前にも、首相代理の職を勤めたことが二度ある。

その二度目のときは、第四次伊藤博文内閣が総辞職する際、渡辺国武と云う大蔵大臣であった男が、頑固にも辞表を出さなかったのを、なんとか説得して辞表を出させるために、任命されたのである。

渡辺は頑固一徹、自称剣道の達人で、生涯独身だったというカタブツである。

西園寺はその説得に手を焼いた。

或る日彼は家に帰ってくると、

「伊藤はんが面倒な仕事を押しつけなはって、こちはえらい尻ぬぐいでおすがな」と、妻の菊子さんに向かってボヤいた。そしてなんと、妻の面前で、「どうも女遊びをしない 人は、話がしにくうおすなあ。少しはこちを見習うとよろしい」

と、云い放ったのである。

しかし妻の菊子さんもたいしたもので、夫のその言葉を聞いても怒るどころか、

「あんたのは話が通りすぎて、ゆきすぎと違いますか」

と、笑ったものである。

2017年

7月

21日

三木武夫

三木武吉氏とよく混同されるのが、三木武夫である。字も一字しか違わない。

さて、この三木武夫夫妻の逸話──

あるとき三木武夫さんの妻・睦子さんが、

「あら、そう云えば、わたし、今年は金婚式だわ」

と、云った。

それを聞いた三木武夫氏、

「ほぅ、それはおめでとう。で、ぼくのはいつだい?」

“わたしたち”と云わなかった睦子さんも、責められてしかるべきかも知れない。

2017年

7月

14日

三木武吉~其の参

三木夫妻は戦中戦後の時期、武吉の故郷高松や小豆島で暮らしていた。

その頃病弱になっていたこの一歳年上の妻の面倒を、武吉はよくみた。常に傍に付き添い、なにくれとなく気を配った。

の様子を目の当たりにした土地の人々は、

「まったく、三木先生ほど情愛の深い人はいない。あの様子を見ていると、私たちも家内をいたわらなければいかん、という気になる」

と、口々に言い交わしたものである。

2017年

7月

07日

三木武吉~其の弐

何某と云う評論家が、三木武吉に“妖怪天狗”と云う綽名を奉った。若いときは知らず、老人となってからの三木は、確かにその様な魁偉な容貌をしている。

対して彼の妻・かね子さんは、若い頃には“早稲田小町”とか、“鶴巻小町”と呼ばれた美少女だった。最近では使わないが、“小町”とは世界三大美女のひとり、小野小町のことで、往時は美しい女性に対して、“~小町”とか、“小町娘”などと噂したものである。

かね子さんの父は、早稲田大学の舎監(学生寮の監督)だった。そのため、

「おれはかね子さんがいるから、早稲田にいるんだ」

と、云う学生もいたぐらいである。

そのかね子さんの結婚した相手が、三木武吉である。当時から妖怪天狗のような容貌だったのかどうかは分からないが、少なくとも貧乏だった事は確かなようだ。

かね子さんが三木と交際(つきあ)っていた頃──、

当時三木は早稲田の図書館設立に携わり、館長兼雑務夫として、名士の家を訪ねては書物の寄贈を求めたり、神田や本郷の書店をまわって新刊書や古書を買い集めたりした。そしてそれらの本を、大八車(所謂リヤカー)に積んで運んだりした。

その姿を見て、かね子さんの二人のお姉さんが意見した。

「かねちゃん、あんな男と交際(つきあ)うなんて、どうかしてるんじゃない? あんたほどの器量をしていながら、物好きが過ぎるわよ。わたしのほうが恥ずかしいわ」

「ほんとうよ。あの人が一生大八車を引いていたら、あんた、いったい、どうするつもり?」

そのときかね子さんはニッコリ笑って、

「そしたらわたしは、車の後を押して歩くわ」

2017年

6月

23日

三木武吉~其の壱

昔は日本にも面白い政治家がいて、色々な逸話を残している──

現在では知る人も少ないが、三木武吉と云う政治家がいた。筆者の大好きな政治家である。

有名な話で、吉田内閣時の分裂選挙、所謂「抜き打ち解散」による選挙で、彼は対立候補から、次のような個人攻撃を受けた。 

「名前は云わないがある有力候補の如きは、妾を四人も持っている。かかる人物が、国政に関与する資格があるだろうか?」と。

立会演説会だったので、三木武吉もその場にいた。

次に登壇した三木は少しも慌てず、

「わたしの前に立ったある無力候補が、『ある有力候補』と申したのは、不肖この三木武吉であります。なるべくなら皆さんの貴重なる一票は、先の無力候補よりは、有力候補たるこの三木武吉に、と、わたしは考えます。

なおここで、先の無力候補の数字的間違いを訂正しておきます。先の無力候補は、わたしに四人の妾がある、と申されましたが、事実は五人であります。五を四と数え間違える如きは、小学校の一年生といえども恥とすべきであります。

ただしこの五人、今日ではみな老来廃馬とあいなり、役には立ちません。が、これを捨て去るが如き不人情は三木には出来ませんから、みな今日も養っております」

時代が時代だけに、いささか差別的な表現もあるが、この三木武吉と云う政治家の面白味は分かっていただけたのではないかと思う。

2017年

6月

09日

中曽根総理誕生秘話

中曾根氏が、晴れて首相の印綬を帯びた。

 「晴れて」と云ったのにはわけがある。彼は佐藤栄作氏が首相を辞めたときに後継候補のひとりと目されたのをはじめとして、その後の首相交替のときには、必ずその後継候補として名前があがった。

 しかしそのつど、「まだ早い」、「先を急ぐな」、「時機を待て」、「ここは○○にやらせろ」と、長老実力者たちに抑えられてきたのである。

 その中曾根氏が、長い念願かなって総理になったとき、彼はその胸中をこう語った。

 「♪いつも、わたしが、待ぁたぁされたぁ~」

2017年

6月

02日

吉田茂v.s.中曽根康弘

 「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」とは、立居振舞いのそれをも含めた美人を形容する、古くからの言葉である。

  

吉田茂が総理大臣だった頃、野党民主党の代議士としてその政策に痛烈な批判の矢を放っていたのが、中曽根康弘である(当時は、“緋縅の若武者を思わせる”と評されたものである)。

  

あるときの国会で、彼は吉田茂の対米追従外交を批判して云った。

 「吉田首相の対米追従外交は、日本の若者たちに良からぬ影響を及ぼしている。現在の日本の若者たちを見れば、『立てばパチンコ、座れば麻雀、歩く姿はヘイ、マンボ!』ではないか」

  註:当時、パチンコは立ってやっていた。

2017年

5月

12日

吉田茂の健康法

 吉田茂は、弟子や政敵たちが次々と亡くなっても、健康そのものでかくしゃくとしていた。ある人がその健康の秘訣を訊ねた。

「そりゃあ君、食ってるものが違うよ」

「何か特別なものですか?」

「いや、そこらにゴロゴロしてる、つまらんものだよ」

「いったい、何を食べてらっしゃるのです?」

「人を食っているのさ」

最近ではあまり使わないが、人をネタにする、バカにする、啞然とさせる、ぐらいの意味だろうか。

2017年

4月

21日

高杉晋作

 幕末、攘夷決行を祖宗の霊に誓うため、天皇が伊勢神宮に行幸したとき、時の将軍徳川家茂がその配下とともに供奉の列に加わっていた。

沿道でその行列を迎えた数多の老若男女のなかに、長州の革命児・高杉晋作もいた。

人々が土下座平伏しているなかにあって、この男だけは平然と顔を上げ、あまつさえ、

「いよう~っ、征夷大将軍!」

と、叫んだのである。

この台詞がいつから、「いよう~っ、大統領!」となったのかについては、定かではない。

2017年

3月

24日

フルシチョフv.s.マクミラン

 国際連合の総会で、イギリスのマクミラン首相が演説しているとき、フルシチョフが靴を脱いでテーブルを叩き始めた。異議ありの意思表示或いはブーイングのつもりだったのだろう。

周囲が緊張するなか、マクミラン首相は少しも表情を変えず、

「すみませんが、そのロシア語も通訳していただけますかな?」

2017年

3月

17日

ガガーリンの名セリフ

 ガガーリンの名台詞と云えば、

 ――地球は青かった。

と、云うのが、有名だが、わたしはそれよりも、

 ――大陸は見えた。海も見えた。でも、国境線は見えなかった。

と、云う言葉のほうが、好きである。

2017年

3月

10日

ガガーリンとフルシチョフ

ガガーリンの栄誉を讃えるため、盛大な祝賀会が催された。

壇上のガガーリンに、フルシチョフ自らメダルを授与することになった。

フルシチョフはガガーリンの胸にメダルをつけようとするが、ピンがなかなかささらない。フルシチョフは汗を流し、必死の形相になってピンを止めようとするが、焦れば焦るほど、うまくいかない。

会場では忍び笑いが拡がり、やがてあちこちから笑い声が聞こえ始めた。ガガーリンも必死で笑いをかみ殺している。

やがてフルシチョフは、自らも笑いながら、汗を拭き拭き、会場の人々に向かい、

「どうです、みなさん。我が国の布地は丈夫でしょう? ピン一本通しません。服を作られるときは、ぜひソビエトの布地で!」

メダルはフルシチョフからガガーリンに直接手渡され、会場は万雷の拍手につつまれた。

2017年

3月

10日

初めて宇宙へ行った人は?

 ガガーリンは初めて宇宙へ行った人ではない。

初めて宇宙から還って来た人である。

2017年

3月

03日

旧ソ連共産党書記長あれこれ~スターリン&フルシチョフⅡ

 スターリン批判が最高潮に達した頃、赤の広場の廟にある彼の遺骸を、別の場所に埋葬し直すことになった。埋葬場所をめぐって議論になったとき、イスラエルから、

「イスラエルを承認してもらえれば、スターリンを埋葬して差し上げますが」

と云う申し出があった。

最高幹部会議は、渡りに舟とばかりに、その申し出を受諾しようとしたが、フルシチョフが猛烈に反対した。

「何と云われようと、世界中で、イスラエルだけは絶対に認めん!」

「同志フルシチョフ、なぜそんなに反対なさるんです?」

「あそこでは死者が復活する恐れがある」

2017年

2月

24日

旧ソ連共産党書記長あれこれ~スターリン&フルシチョフⅠ

 アメリカ合衆国大統領を出した以上、旧ソヴィエト連邦の共産党書記長にも御登場ねがおう――――

  

スターリンの恐怖政治は有名だ。

 その真っ只中での話。

 フルシチョフは無学の叩きあげで、正式なテーブル・マナーなど知らない。クレムリンの晩餐会でも、手づかみで料理を平らげている。

 見かねたスターリンが注意した。

「同志フルシチョフ、ナイフを使いたまえ!」

 フルシチョフはナイフをつかんで立ち上がると、

 「誰を? 同志スターリン」

2017年

2月

17日

アメリカ合衆国大統領あれこれ~アンドリュー・ジャクソン

 

リンカーンが暗殺された後、副大統領から昇格して第十七代大統領となったのは、アンドリュー・ジョンソンである。

 

A・ジョンソンは仕立屋から身を起こし、テネシー州議会議員、連邦下院議員、テネシー州知事、連邦上院議員と、地味ではあるが、着実に政界の階段を上っていった。

 

彼がテネシー州知事に当選したときのこと、長年の友人である判事が、我が事のように喜んだ。その判事も、しがない鍛冶屋から身を起こして、法曹界で出世した人物である。

 

その判事は、ジョンソンがテネシー州知事に当選したと聞くと、町の鍛冶屋に出かけて、自分で鉄を選び、自分でハンマーを振るって、暖炉用の火かき棒と十能を作り、ジョンソン知事にプレゼントした。

 

ジョンソン知事はその返礼に、仕立屋をその判事のところに送って寸法をとらせると、町中で一番上等の布地を選んで、自ら一晩かけて服を縫い上げ、その判事に届けた。

2017年

2月

10日

アメリカ合衆国大統領あれこれ~ジョージ・ワシントン

 ジョージ・ワシントンが、桜の木を伐ったのは自分であると告げたとき、なぜ彼の父親は彼を許したのか?

 ジョージがまだ斧を持っていたからである。

2017年

1月

13日

アメリカ合衆国大統領あれこれ~ロナルド・レーガンⅢ

 

レーガン氏が超保守派、と云うより、タカ派であることは、これまた有名だが、彼は俳優時代、五期(約十二年半)に渡って、映画俳優組合の委員長を務めた。

 

労組の委員長を経験した大統領は、彼が初めてである。

 

 

それよりも私の感覚としては、労組の委員長を経験した大統領が、超保守のタカ派である、と、云うのが、珍妙である。

 

は離婚歴のある初の大統領である。最初の妻はジェーン・ワイマン。彼女はレーガン氏との結婚中、一九四八年度のアカデミー主演女優賞を受賞している。

2017年

1月

06日

アメリカ合衆国大統領あれこれ~ロナルド・レーガンⅡ

 

レーガン氏が大統領になって、一番後悔したのは、ハリウッドのプロデューサーたちらしい。

「彼にもっとマシな役をやっていれば、大統領なんかになることはなかっのに」

2016年

12月

28日

アメリカ合衆国大統領あれこれ~ロナルド・レーガンⅠ

第四十代の大統領、ロナルド・ウィルソン・レーガン氏は、初の映画俳優出身の大統領として有名である。

 

彼が大統領に就任したとき、日本ではこんなことが云われた。

 

「日本の首相を、黒澤明氏にしたらどうか?」

2016年

12月

22日

アメリカ合衆国大統領あれこれ

 

フォード大統領は、現職の合衆国大統領として来日した、初めての大統領である。

 

二〇〇〇年の大統領選挙に勝利して第四十三代の合衆国大統領になったブッシュ氏は、父親も大統領を勤めた二番目の人である。

 

最初に親子二代で大統領になったのは、第二代のジョン・アダムズと、その息子ジョン・クインシー・アダムズ(第六代)である。

 

因みに第二十三代の大統領ベンジャミン・ハリソン氏は、祖父が大統領を勤めた(第九代のウィリアム・ヘンリー・ハリソン)唯一の大統領である。彼は就任式に、祖父の形見の帽子を用いて臨んだ。

 

その第九代大統領ウィリアム・ヘンリー・ハリソン氏は、「在任期間最短(約一ヶ月)」、「任期中に死亡した初」の大統領である。

 

 

2016年

12月

16日

アメリカ合衆国大統領あれこれ~リンカーンv.s.フォード

 ロサンジェルスで黒人の暴動が起ったとき、フォード、シボレー、ベンツ、ビュイック、ホンダ、ルノー、と、ありとあらゆる高級車が破壊されたが、リンカーンだけは無事だった。

 

上はジョークだが、似たようなことを、その就任演説でのたまった大統領がいた。

 「私はフォードであって、リンカーンではない。しかし、モデルTではない。」

  アメリカ合衆国第三十八代大統領ジェラルド・ルドルフ・フォード氏である。

2016年

12月

09日

アメリカ合衆国大統領あれこれ~エイブラハム・リンカーン Ⅲ

 

エイブラハム・リンカーン氏は、丸太小屋で生まれたと云う伝説だけでなく、歴代大統領の中でも最も長身(六フィート四インチ=約一九三センチ)と云うことでも有名である。

「リンカーンが現在生きていたとしても立派な大統領になれるかどうかは分からないが、少なくとも立派なバスケットボール選手になれるだろうことは、奨学金を受けられるだろうと云うことぐらいに確実だ」

2016年

11月

18日

アメリカ合衆国大統領あれこれ~エイブラハム・リンカーン Ⅱ

 

リンカーン氏が自分の靴を磨いているのを見た男が、驚いて云った。

「大統領ともあろうお方が、御自分の靴を磨かれるのですか?」

「そうですよ」リンカーン氏は平然と云った。「あなたは誰の靴を磨かれるのです?」

仄聞するところによれば、「~の靴を磨く」とは、「~にゴマをする」と云う意味なのだそうな。

 

これにはもうひとつのエピソードがある。

リンカーン氏が自分の靴を磨いているのを見た男が、驚いて云った。

「そんなことは、大統領ともあろうお方のなさる仕事ではありません」

リンカーン氏は平然として、

「この世に仕事の上下はありません。ただ、仕事に上下をつけたがる人間に、上下があるだけです」

 

 

2016年

11月

11日

アメリカ合衆国大統領あれこれ~ドナルド・トランプ

2016年(平成28年)11月9日、第45代目のアメリカ合衆国大統領に、共和党のドナルド・トランプ氏が就任することが、ほぼ、確定した。

ほぼ、と、云ったのは、この日から大統領就任の翌2017年(平成29年)1月20日まで、約2ヶ月以上の月日があるからである。

不吉なことを云うようだが、この間に、トランプ氏の身になにかが起こり、その結果、大統領職務の遂行が不可能になれば、当然氏は、大統領には就任できないだろうからである。

そのようなことが起きずに、氏が無事に、第45代アメリカ合衆国大統領量に就任するとなると、次のような記録が生じる。

1.過去に、いかなる行政職の経験も、軍歴もなくして大統領になった、初めての大統領。

2.史上最高齢で就任した大統領。

 2017年1月20日で、70歳7ヶ月と6日になり、史上最高齢で就任したアメリカ合衆国

 大統領となる。

 ちなみに第2位は、第40代のロナルド・レーガン氏で、そのとき69歳11ヶ月と14

 日だった。

 どちらも、共和党の大統領である。

2016年

10月

28日

アメリカ合衆国大統領あれこれ~エイブラハム・リンカーン Ⅰ

ニュー・ヨーク北部のウェストフィールド村に住んでいたグレース・ベデルと云う女の子は、新しい大統領の写真を見たとき、

 「コワイ顔やなぁ。でも、髭生やしたら、きっとハンサムで、男前になるで」

 と、思った。思っただけではなく、彼女はその意見を手紙で新大統領に伝えた。

 この新大統領はその手紙に対し、「いままで大統領やってて、髭を生やした人はいてまへん。それに、いまからいきなり髭、生やし始めたら、国民は、『アホな大統領や』って、 笑いはせえへんでしょうか?」と、返事を書いた。

 「そんなこと、ありまへん。髭のない大統領のお顔は、コワイんやもん。でも、髭生やしたら、きっとカッコようなりますわ。ウチだけやのうて、友だちもみんな、そない云うてますわ」

 ワシントンでの就任式に臨む日、大統領はウェストフィールドの駅で列車を止め、デッキに出て群衆に声をかけた。

 「この町に、わたしと文通してはる、グレース・ベデルっちゅうお嬢さんがいてはります。もしここにいてはったら、どうぞ、出てきてください」

 彼女が驚きつつ出てくると、大統領は、

 「やぁ、グレースさん」と、やっと生えた顎髭を撫でながら、「あんたの云うとおり、髭生やしてみたで。どや、男前に見えるか?」

 グレースは感激して、

 「よお似合うてはります。それに、あなたはきっと、いちばん立派な大統領になりはりますわ」

 と、叫んだ。

 

彼女の予言は当たった。今日、世界中のすべての人々が、エイブラハム・リンカーン氏を、いちばん立派な米国大統領と認めている。

2016年

10月

27日

アメリカ合衆国大統領あれこれ~セオドア・ルーズベルト Ⅲ

中学で英語を習っていた頃、どうしてウィリアムの愛称が「ビル」なのか、理解に苦しんだことがある。
おそらく、「ウィリアム」→「ウィル」→「ビル」と、なったのであろう。

ウィリアムはなんとか理解できたが、分からないのは、「セオドア」の愛称である。
セオドアの愛称は、「テッド」、「テディ」である。
これはなぜそうなるのか、理解に苦しんだ。

セオドア・ルーズベルトは狩猟好きだった。あるとき狩りにでかけたが、一頭の獲物も仕留められなかった。
側近が一計を案じた。
一頭の熊を木にくくりつけ、これを仕留めるよう大統領に勧めたのである。
側近としては大統領の激務による憂さ(現代で云うストレス)を晴らすために仕掛けたものだったのだろう。一説によると、その熊は母熊で、幼い仔熊がその乳を求めて擦り寄ってきていたと云う。
大統領は銃を下ろして首を振ると、
「そんな非情なマネはできない。不公正で、恥ずべき行為だ」
と、云って、その熊を逃がすよう命じた。

この話から、現在もなお、世界中で愛されている、“テディ・ベア”と云う熊のぬいぐるみが誕生したのである。

 

今日10月27日は、セオドア・ルーズベルトの誕生日。

2016年

9月

16日

アメリカ合衆国大統領あれこれ~セオドア・ルーズヴェルト Ⅱ

 セオドア・ルーズベルトは、日露戦争において、日露両国の間を調停してポーツマス条約を締結せしめるのに功あった。その功により、一九〇六年に第六回のノーベル平和賞を受賞している。太平洋戦争時の大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルトは、彼の従兄弟である。

 セオドアが日露戦争の仲介をして日本に好意的だったのに、その従兄弟のフランクリンが大統領のときに、日米が開戦のやむなきにいたったのも、歴史の皮肉と云うべきだろうか。

 セオドアのほうのルーズベルトは、『忠臣蔵』の英訳を愛読していたと云う。

2016年

9月

16日

アメリカ合衆国大統領あれこれ~セオドア・ルーズヴェルト Ⅰ

 アメリカ合衆国の第二十六代目の大統領、セオドア・ルーズベルトは、史上最年少で大統領となった人物である。そのとき彼は、四十二歳と三百二十二日。第二十五代目の大統領ウィリアム・マッキンレーが暗殺されたため、副大統領から昇格したのである。

 ちなみに、選挙で選ばれた大統領で最も若いのが、第三十五代大統領J・F・Kことジョン・フィッツジェラルド・ケネディである。

2016年

9月

09日

場末のストリップ小屋で……

 一九二六年にノーベル文学賞を受賞したバーナード・ショーが、あるとき、こんなことを語った。

「わたしがまだ若く、無名で金もなく、場末のストリップ小屋で寸劇の台本を書いていた頃、出を待つ間に、楽屋の隅でショーペンハウエルを読んでいる若いコメディアンがいた。

 後に彼はアメリカに渡って、ドタバタ喜劇の映画に出始めた。

 彼の名かい? たしか、チャールズ・チャップリンとか云っていた」

2016年

8月

26日

計算の不得手な老紳士

 ある老紳士が、ニュー・ヨークの市電から降りる際に、運賃を支払った。運転手が釣り銭を渡して、間違いないか確認するように云った。

 その老紳士は何度も勘定し、計算が合っているかどうか、後ろの客に確かめ、ようやく納得してバスを降りかかった。

 その老紳士にバスの運転手はいたわるように云った。

「あんた、計算は得意じゃないみたいだね」

 老紳士──アルバート・アインシュタイン──は、恥ずかしそうに笑って、ステップを降りて行った。

2016年

8月

26日

ヒッチコックの叔父さん

 映画監督のアルフレッド・ヒッチコックは、『ヒッチコック劇場』と云うテレビ番組をもっていた。彼はその前座に出ては、冗談めかして面白可笑(おか)しく、そのとき放映される話の解説をした。

 あるとき彼は云った。

「わたしが子供だった頃、よく夕食を御馳走してくれた叔父がおりました。叔父さんは食事の前に、いつも自分の自慢話を、長々と語ったものです。

 しかしわたしは辛抱して、熱心にその話を聞きました。なにしろ、夕食代を払ってくれるのですから。

 なぜ突然、懐かしい叔父の事を思い出したのか分かりませんが、ちょうどここでコマーシャルです」 

2016年

8月

19日

空を飛べるのは天使だけ?

  むかし、アメリカ合衆国の中西部で、一人の牧師が説教をしていた。

「空を飛べるのは天使だけです。人間が空を飛べるようになるなどと、それは神を冒瀆する妄想にすぎません」

 その牧師の名は、ミルトン・ライトと云った。

 彼には二人の息子がおり、ひとりはウィルバー、もうひとりはオーヴィルと云った。

 この二人は現在、ライト兄弟として知られている。

 

 今日8月19日は、オーヴィル・ライトの誕生日である。