『夕鶴』考

築山 散作

民話や童話、伝承伝説などには、“異類婚姻譚”と呼ばれるジャンルに分類される話があります。
“異類婚姻譚”とは、「人間と違った種類の存在と人間とが結婚する説話の総称」です。(Wikipediaより)
世界各地に残る神話伝説、とりわけ古代国家の建国伝説は、ほぼすべてが、この“異類婚姻譚”である、と、云えるでしょう。
我々に身近な話では、信太山の葛葉伝説や、アンデルセンの人魚姫などが思い浮かびます。雪女なども、このジャンルに入るでしょう。
なかでも有名なのが、「夕鶴」です。

これらの話には、一定のパターンがあります。
それを概括しますと、以下のようになります。

1.援助 - 例:動物を助ける。
2.来訪 - 例:動物が人間に化けて訪れる。
3.共棲 - 例:守るべき契約や規則がある。
4.労働 - 例:富をもたらす。
5.破局 - 例:正体を知ってしまう。(見るなのタブー)
6.別離

「夕鶴」はこのパターンを完璧に備えています。
それゆえにこそ、「夕鶴」は、いまに語り継がれる名作になっていると云えるのですが、しかし、「夕鶴」の魅力は、それだけに尽きるものではありません。
それではなにゆえに、「夕鶴」はかくまでに魅力があるのでしょうか。
「夕鶴」が如何に上記のパターンに合致しているかを検証しつつ、それだけに止まらない「夕鶴」の魅力を、以下の叙述で、明らかにしていきます。

1.援助 - 動物を助ける。
或る日の夕暮れ、猟師の与兵(よひょう…漢字は筆者の当て字)は、罠にかかっている一羽の鶴を助けます。

2.来訪 - 動物が人間に化けて訪れる。
その夜、ひとりの女性が、与兵のもとを訪れます。彼女は夕刻、与兵が罠から助けた鶴でした。

ここで誤解してはならないのは、与兵に助けられた鶴は、助けられた恩返しにやってくるわけではない、と、云うことです。
ですから、「夕鶴」を「鶴の恩返し」と題することには、違和感をおぼえます。
動物たちの世界と云いますと、自然で、鷹揚で、のびのびしていて、ゆったりした、いかにも平和な世界、と、思われがちですが、じつはそんな生易しいものではありません。
動物たちの住む世界は、まさに弱肉強食、強いものだけが生き残り、弱いものは死なねばならない、つらく、厳しく、残酷な世界なのです。
とりわけ人間の存在は、動物たちにとっては、恐ろしく、いやらしく、忌まわしいものでしょう。
彼らは木を伐採して自分たち(動物)の住処を奪い、罠を仕掛け、弓鉄砲、銛網などの道具を使い、自分たち(動物)を苦しめます。
自然界のあらゆる動物たちにとって、人間こそは、最大の天敵でしょう。
そんななかにあって、人間の仕掛けた罠にかかって苦しんでいる自分を助けてくれた人間の存在は、動物にとっては、とても信じられないものでしょう。
罠にかかって捕えられたら、それはすでに死を意味するのが、動物の世界の常識です。
それを助けてくれるのですから、動物としては、とても信じられない出来事です。
助けられた動物は、そのやさしさに惹かれて、人間のもとに嫁いでくるのです。
ちょっとした油断が死を招く厳しい世界とは全く異次元の、やさしく、あたたかく、ほのぼのとした世界、常に死の危険と隣り合わせの過酷な世界、そんな世界とは無縁の生活……。
「この人となら、仕合せに生きていける」
そう思わせる魅力が、動物を助けた人間には感じられるのです。
それを「やさしさ」と云ってしまうのは簡単です。
しかし、その「やさしさ」とは、じつは比類のないものなのです。
たいていの人間にとっては、動物とは、自分の生存を維持するための、「材料」にすぎません。
魚、豚、鶏、牛、……みなそれらの動物を殺し皮を剥ぎ、身を削り取って煮たり焼いたり炊いたりして、自分が生きるための食料とします。
或いはその皮を剥いで身にまとい、寒暑をしのぐための衣服とします。
それが人間にとっては、当たり前のことなのです。
動物の側から見れば、自分たちをそのような「材料」としてしか見ていない人間が、罠にかかった自分を助けてくれるのです。
すばらしいことです。
そこには、人間も動物もない。ともにこの大自然で生きている、ともに命をもっている存在なんだ、と、云う思いがあります。
その心性に、命を助けられた動物は惚れ込むのです。
そうして、人間の姿をとって、彼のもとに嫁いでくるのです。

3.共棲 - 守るべき契約や規則がある。
4.労働 - 富をもたらす。
「つう」と名のり、与兵と暮らすことになった鶴は、動物のときには考えられもしなかったような仕合せな日々を過ごします。
鷲や鷹のような、恐ろしい同属の攻撃に怯えることもありません。
人間の鉄砲や弓に傷つけられる恐れもありません。
傍らにはやさしい与兵がいます。
村の子供たちは、彼女を慕い、「おばさん、おばさん、遊ぼうよ。遊んでよ」と、云って、その後をついてきます。
大人にとって子どもとは、未熟なもの、育てらるべきもの、これから大きくなるもの、です。
謂わば、大人は教師であり、子どもは生徒です。
しかし、本来が動物であるつうには、そんな人間の了解はありません。
命あるものは、みな自分と同じ存在、動物も人間もない、この大自然に生きるものは、みな同じ仲間なのだ、と、云う、思いがあるだけです。つうには、大人も子どももありません。共に同じ大自然の存在なのです。
それがつうのやさしさであり、その思いがにじみ出るからこそ、子どもたちはつうの後を慕ってくるのです。
与兵の暮らしは貧しいものですが、本来動物(鶴)であるつうにとっては、「貧しさ」と云う考えはありません。
本来動物であるつうにとっては、「金銭」も「豊かさ」も「貧しさ」も、なんのことなのか、分かりません。
つうに分かるのは、あたたかく、ほのぼのした、平和で、仕合せな、毎日の暮らしのことだけです。
それでもつうは、人間が、「金銭」とか、「豊かさ」とかを希い、求めていることは理解しています。
それゆえにこそ人間は、自分たち動物を捕え、その肉を食し、その皮を剥ぎ、その羽毛をむしり、自分たちの生活の具に資するのです。
つうは夜になると一室に籠り、元の鶴の姿に戻って自らの羽を抜き、翌朝には美しい布を織り上げます。
つうには、なぜ人間が、自分たちの羽毛をむしりとって、布をつくるのか、その理由は分かりません。
つうに分かるのは、人間は自分たちを捕えてその肉を喰らい、自分たちの羽毛をむしって、自分たちの身を飾る布にする、恐ろしく、残酷な存在だ、と、云うことです。
そして人間たちは、自分たち鶴の羽毛で拵えた布を手にすれば、たいへん喜ぶ、と、云うことです。
つうは自分の羽毛を抜いて、美しい布を織り上げます。
与兵に喜んでもらいたい、与兵の喜ぶ顔が見たい、その一心で、つうは、文字どおり、身を切るような痛さを堪えて、みずからの羽毛で布を織り上げます。
つうは、与兵に金持ちになってもらいたいわけでも、もっといい暮らしをしてもらいたいわけでもありません。罠にかかった自分を助けてくれたお礼などでは、もとより、ありません。
ただひたすらに、与兵の喜ぶ顔が見たいだけなのです。
愛する人の喜ぶ顔が見たい、愛する人に、いつまでも仕合せでいてほしい……。
そのために、なにかしたい。自分のしたことで、好きな人が、愛する人が喜んでくれる、それこそが、自分の仕合せである……。
つうがみずからの羽毛を引き抜いて、一枚の布を織り上げる裏には、そのような美しい心が籠められているのです。
だからこそ、つうの織り上げた布は、都でも評判になるくらい、美しくも優しいものとなるのです。

つうはその布を織り上げるための室に籠るとき、なにがあろうと、絶対にこの室のなかを覗かないでください、と、念を押します。
羽毛を抜いて布を織り上げるためには、つうは人間の姿から、元の鶴の姿に戻らねばなりません。
もしその姿を見られたら、つうは、もはや与兵と一緒に暮らしていくことは出来ないのです。
いかに人間の姿をとっていようとも、つうは鶴です。
与兵は人間です。
鶴と人間、本来、「結ばれるはずはない」ふたりです。
いえ、「結ばれるはずはない」どころか、「結ばれてはいけない」のです。
そこには、自分の意志や愛情ではなんともしがたい、厳然たる壁があります。
「結ばれない」のであれば、その困難を打ち破ることは、たとえその可能性は低くとも、不可能ではないでしょう。
しかし、「結ばれない」のではありません。「結ばれてはいけない」のです。
これは大自然の掟、いかなる意志でも愛情でも覆すことの出来ない、絶対の掟なのです。
どんなに愛していても、どんなに想い、どんなに慕っていても、決して壊すことの出来ない厳然とした壁が、つうと与兵のあいだには存在しているのです。
つうはそんな壁を意に介さず、与兵のもとに嫁いできます。つうの、与兵を想うその想いには、大自然の掟も意味を成しません。
しかし、悲しいかな、その掟は、厳然として、存在するのです。

つうは時折、人目を忍んで村外れの湖水に行き、そこで元の鶴の姿に戻って、思う存分羽ばたき、水を浴び、大自然のなかを遊弋します。
そして、ふたたび人間の姿に戻って、与兵のもとに帰ります。
そのときのつうの表情は、どのようなものだったでしょうか。
愛する与兵との仕合せな生活、思ってもいなかったような、なにひとつ不満のない生活、愛する与兵が傍にいる、与兵のやさしさに温かく包まれている、平和で、のんびりとした、もはや命の危険に見舞われることのない、穏やかな生活……。
なのにつうは、そんな人間の姿を捨てて、元の鶴の姿に返ります。
窮屈な仮の姿、人間の姿を捨てて、自分本来の鶴の姿になって、思う存分、大自然のなかを遊弋します。
そして人間の姿に戻ったとき──、
どんなに愛されていても、どんなに仕合せであっても、やっぱり自分は鶴なんだ、人間じゃないんだ、与兵とは違うのだ……。
そう感じざるを得なかったとき、鶴としてのびのびと大自然のなかを遊弋していたときの愉しさ、その解放感……、本来愉しいはずのその感動を、それが愉しければ愉しかっただけ、人間に戻ったつうは、哀しく思ったでしょう。

信太の森の葛葉伝説では、狐が自分を助けてくれた男のもとに嫁ぎ、愛されて子を成しますが、或る夜、自分本来の狐の姿に戻って森に遊び、ふと気がつくと、人間でありながら狐に返った自分の尻尾をつかんで、自分の子供が泣いているのを目にします。
――あぁ、やはり自分は狐なのだ。どんなにうまく化けても、自分は人間にはなれないのだ……。
そう思った狐は、一首の歌を残して、森の中に去って行きます。
「恋しくば 訪ねきてみよ 和泉なる 信太の森の 恨み葛葉」
この歌にこめられた狐の気もちは、いかなるものだったのでしょうか?
自分を助けてくれた人間のもとに嫁いできた狐は、いったいなにを恨んで、信太の森に帰って行ったのでしょうか?
どんなに恋い慕っていても、厳然と存在する、大自然の掟でしょうか? 人間になろう、恋い慕う男と同じ種族になろうと努めても、どうしても抜けきれない、狐の本性でしょうか? 狐として、大自然の森のなかを思う存分に駆けまわり、しびれるような解放感を感じてしまう、自分自身でしょうか? 狐に生れて来た、自分の宿命でしょうか?
おそらくはそのすべてでしょう。
しかしなによりもつらいのは、それらの宿命を、“宿命”としか云いようがない、その宿命を、恨むことができない、恨もうと思っても、とても恨めない、その思いでありましょう。
恋する男が人間であることも、人間になろうと努めても人間になれない自分をも、自分の身内に潜む、消そうとしても消せない、狐としての本性をも、とても恨むことが出来ない、恨めない、そんな自分の気持ちをこそ、この狐は、恨んだのでしょう。

中島みゆきさんの曲に、『うらみ・ます』と、云うのがあります。
わたしの友人がこの曲を評して、
「相手の男を恨めたら、こんな曲にはならないよね」
と、云ったことがあります。
的確な評言です。
この曲中の女性には、相手の男を恨む、充分な理由があります。この女性が相手の男を恨んでも、みなが、そりゃそうだろうな、と、納得できるだけの、充分な理由があります。
しかし、この女性は、相手の男を恨めないのです。
恨もう、恨もうとしても、とても恨めないのです。
彼女が恨んだのは、相手の裏切りや軽薄などではなく、相手に裏切られ、弄ばれて、それでもなお、相手を恨めない自分自身、そんな男に恋してしまった、その運命、その宿命、なのです。
だからこそ、『うらみ・ます』は、あのように哀しい、あのように怨念のこもった歌になるのです。

5.破局 - 正体を知ってしまう。(見るなのタブー)
6.別離
つうの織った布は都でも評判となります。
つうの織った布が高値で取引され、与兵の友人たちは、与兵を口説いて、つうによりいっそう、その布を織らせるように仕向けようとします。
つうがもっと布を織ってくれれば、もっと儲かる、たくさん儲けて、都へも行けるようになる。
与兵はつうに、よりいっそう、布を織ってくれるように頼みます。
つうには、与兵の心情が理解できません。
なぜ儲けたいのか、なぜ都に行きたいのか。
いまのままで、充分、仕合せではないか。
もともとが動物であるつうには、そんな人間の感情は理解できません。
「より多くを得たい」、「よりよくなりたい」……
プラス方向の“より”を希む感情、マイナス方向の“より”を懼れる感情、それは、人間特有の感情なのかもしれません。
与兵がより多くを望み、よりよきを望んで、布を織ってくれと頼む哀しさは、その布を織り上げるために、自分が骨身を削っていることを解ってくれない哀しみではありません。
自分が求めるものと、与兵が求めるものとが、根本から違っているのだ、と、云うことを理解させられた哀しさです。
それはまた、しょせん自分は鶴で、与兵は人間なのだ、と、云うことを、あらためて確認させられた哀しさでもあります。

その夜、与兵はかねてからの誓いを破って、つうの籠る一室を覗いてしまいます。
それはけっして、好奇心に負けたからではありません。
夜毎布を織るつうの身体が痩せ細り、衰弱していくのが気にかかったからです。
つうを思う気持ち、つうを大事に思う気持ちが、与兵にタブーを破らせます。
なんと皮肉なことでしょうか。その人を思う気持ちが、その人のことを大事に思う気持ちが、その人のいちばん触れられたくない部分に、触れてしまったのです。
与兵は、つうの本当の姿を見てしまいます。

鶴である自分の姿を与兵に知られたつうは、一反の布を残して、天空へと去っていきます。
与兵はその鶴を追いかけて、村を駆け抜けます。
「つう、つう、つう~」
与兵には、大自然の掟も、「結ばれてはいけない」掟もありません。
そこにあるのは、ただ、自分が愛した存在、自分が大事に、大事に思っている存在だけです。
それが鶴であろうと、人間であろうと、与兵には、関係ないのです。
鶴を愛し、鶴をいとおしみ、鶴と夫婦になる――、他の人間からすれば、バカげたことでしょう。
しかしそれは、そんなにバカげたことなのでしょうか。
すべてこの大自然のなかに生きるものは、この大自然のなかに生きとし生けるものは、動物も人間も関係ない、たった一つの、大切な、大切な、そのものにしかない、“生命”を育んでいるのです。
その生命をいとおしみ、大事に思い、その仕合せを希う、相手が鶴であろうと、人間であろうと、そんなことは関係ない……。
つうも、与兵も、同じ思いです。
だからこそ、つうは与兵のもとに嫁いで来るのですし、与兵も、つうが実は鶴だった、と、分っても、そのようなことは意に介さず、つうの姿を求めて、村中を駆けめぐるのです。
ともに愛し合い、ともにその存在を大切にし合い、その人がそこにいる、ただそれだけで、たがいに仕合せだったふたりを引き裂く、その大自然の掟とは、なんと無情で、なんと哀しいものなのでしょうか。

これを、民話だけの話、と、思いますか?
いまもあるんじゃ、ないでしょうか?
年齢の差、育ちの違い、国籍の違い、さらには、性別の異同まで……。
先日、渋谷区が、同性同士のカップルのパートナーシップを公認する「パートナーシップ証明書」を交付しました。全国で初めて成立した「同性パートナーシップ条例」に基づいたものです。
なんと素晴らしいことでしょうか。
この快挙は、たんに同性同士のカップルを、異性同士のカップルと同等に認めることを公認したにとどまらず、本来人間にとって大事なものはなんなのか、人間が人間と共に生きて行くのに大切なものはなんなのか、その問いに、一定の答えを示したものです。
今回のこの渋谷区の決定は、性の異同は、愛の上においては、人間同士が共に生きて行こうとする上においては、決定的に大事なものではない、と、判断したものなのです。
なんと、素晴らしい判断でしょうか。
しかし、この判断が、じつに素晴らしい判断であると同時に、哀しい判断でもあるのは、逆説のようですが、この判断が、“素晴らしい判断”であることです。
性の異同が、お互いを大切に思い、お互いに人生行路を歩んでいこうとする二人にとって、なんの障害にもならない、なんの差し障りもないものであったならば、この判断は、「当たり前」の判断であって、「素晴らしい」判断とはならないでしょう。

いまでもあるのですね。つうと与兵の間を引き裂いた、厳然たる、“大自然の掟”が……。
本来、おたがいの愛情だけが大切であるべきはずのふたりのあいだに、なんとつまらない、しょうもない、そのくせ堅固な、数々の“掟”が、存在するのでしょう……。
そんなつまらない“世間の掟”が存在するかぎり、この「夕鶴」は、哀しくも美しい魅力を秘めて、いつまでも、わたしたちを魅了しつづけるでしょう。