或る日の人物伝~秋山眞之の友情

亮 王樹

  ──そのとき、秋山さんは雀躍りしておられた。

 それが現在につたわる逸話である。

 時は明治三十八(一九〇五)年五月二十七日、早朝午前五時過ぎのことである。

 持場作業のない者は、甲板で総員起し直後の体操を行なっていた。聯合艦隊参謀の秋山眞之も、そのなかのひとりだった。

 眞之は他の兵員たちから離れて、ひとり、後甲板で体操していた。

──バルチック艦隊来たる。

 その密封報告を手にした伝令手が、

「そら、来たぞ」

 と、叫びながら、駆け過ぎていった。

 まぶしい朝日のなかで体操していた兵員たちの手足がいっせいに止まり、続いて、どっと喊声があがった。

 各自持場に散っていく兵員たちの群れのなかで、ひとり眞之だけは、

「シ、メ、タ、シ、メ、タ」

 と、その手足を奇妙な格好に振って踊りだした。それはまるで、阿波踊りのようであった──、とは、当時「三笠」の砲術長であった安保清種の談である。

 眞之がそれほどまでに狂喜したのには、深い理由があった――

 

 そのころ眞之は、日本海軍の聯合艦隊参謀の職にあった。聯合艦隊における参謀長の職を務めていたのは、のち、大正の御世になって総理大臣の印綬を帯びることとなった、加藤友三郎だった。眞之はその加藤参謀長の下の、一参謀に過ぎなかった。しかし、聯合艦隊における先任参謀として、また後に、「智謀湧くが如し」と称されることとなった、その独創力に富む頭脳によって、聯合艦隊中の期待を集めていた。

 その眞之はもとより、参謀長の加藤友三郎以下、幕下の参謀たち全員が、いちばん神経を尖らせ、日夜その脳髄を絞るようにして考え続けていたのが、バルチック艦隊の来路だった。

──バルチック艦隊はどの航路をたどってやってくるのか?

 そのことに、聯合艦隊の乗組員のみならず、日本国中のすべての人々が耳目をそばだたせ、その神経を研ぎ澄まさせていた。

 明治天皇も、桂総理大臣以下の諸閣僚も、山懸参謀総長を始めとする統帥部の幕僚たちも、渋沢岩崎三井らの財界首脳たちも、議会に右往左往する代議士たちも、腰弁当の工員事務員女工たちも、村の庄屋や小作人たちも、花柳界の芸者仲居から幇間持ち、奉公人や丁稚小僧、裏長屋に住む左官の八っさん、大工の熊さん、そのおかみさんたちまでもが、バルチック艦隊の来航路を気にかけていた。

 宮中でも議事堂でも、お座敷でも銭湯でも、長屋の井戸端でも、農村の畦道でも、とにかく人が二人以上集ると、

「バルチック艦隊はどちらから来るだろうか」

 その話題でもちきりだった。

 バルチック艦隊来航の目的は分かっていた。中国に配備された旅順艦隊、あるいはウラジオストックに配備された浦塩艦隊と合流して、日本海軍の聯合艦隊を撃破し、日本海を制圧して、満洲における日本陸軍の補給を断絶させることであった。

 補給が断たれれば、日本陸軍は満洲の地に孤立し、強大なる露西亜陸軍に殲滅されざるをえない。それが露西亜の目論見だった。

 それに対して日本海軍は、バルチック艦隊来航以前に、旅順艦隊並びに浦塩艦隊を粉砕し、しかる後にバルチック艦隊と決戦して、これを撃滅することを、その戦略目標としていた。

 旅順艦隊、浦塩艦隊、バルチック艦隊のそれぞれは、それぞれがその一艦隊だけで、日本の聯合艦隊と互角に戦えるだけの戦備を有していた。

 さいわいに旅順艦隊には、先の黄海海戦と陸軍による旅順攻略とで、壊滅的な打撃をあたえることに成功していた。

 浦塩艦隊も、上村彦之丞提督率いる第二艦隊が、八月十四日の蔚山沖の海戦で、戦闘不能におとしいれていた。

 残るはバルチック艦隊だけだった。旅順艦隊が壊滅し、浦塩艦隊が死滅してもなお、露西亜帝国はその威信を示すため、また、敗北と後退を繰り返すこの戦役の起死回生を図るため、あくまでバルチック艦隊を日本に向けて、回航させていた。

バルチック艦隊一個をもってしても、日本海を露西亜の手中に収め、満洲の日本陸軍を孤立させようと目論んでいたのである。そしてそれは、充分に採算のある目論見だった。

 日本側も、その露西亜側の意図は察知していたが、ここに問題が生じた。バルチック艦隊の来航路である。

 考えられるバルチック艦隊の来航路は、ふたつしかない。東シナ海から対馬海峡をとおって日本海に入るか、太平洋岸を迂回して津軽海峡、あるいは間宮海峡から日本海に入るか、である。

 聯合艦隊は対馬沖近辺に投錨していた。幕僚たちのほとんどは、バルチック艦隊は対馬海峡にやってくる、と、考えていた。

 しかし、万が一……、の懸念がないではなかった。

 万一、バルチック艦隊が津軽海峡方面に向かったならば、対馬沖近辺に布陣する聯合艦隊は、どんなに急いでも、バルチック艦隊を迎撃してこれを撃滅することは不可能だった。

 戦闘能力の問題ではない。地理的時間的の問題だった。

 聯合艦隊に課せられた任務は、単なる「勝利」ではなかった。それは敵艦隊に対する、完膚なきまでの、徹底的な「壊滅」であった。たとえ一隻でも、敵艦を取り逃がすようなことがあってはならなかった。そうなれば、日本海はその一隻によって攪乱され、その海上支配は破綻せざるをえなくなるだろう。

 しかも、その勝利を得るために与えられた時間は、わずかに一日――日没後数時間まで、だった。

 日が沈み、視界が闇に閉ざされて、それがために敵艦を取り逃がすようなことがあってはならないのである。

 幕僚たちの一部からは、対馬津軽両海峡の中間地点である能登半島付近で待機しようと云う意見も出た。

 能登半島からであれば、バルチック艦隊が、対馬津軽いずれの海峡を通過しようとも、これに対峙できる、と、云うのであった。

 しかし、この意見は採用されなかった。敵艦隊が対馬津軽両海峡のいずれからやって来るにしても、能登半島付近からでは接近に時間がかかり、敵艦隊をその日中に「壊滅」しえない、と云うのが、その理由であった。

 バルチック艦隊を迎撃するにあたって、聯合艦隊の参謀たちは、その知嚢を搾り尽くした。その心労は、あたかも神が、人間はどの程度までの心労に耐えうるのか、それを試みるために、あえて設定したものと思われるほどだった。いや、それを設定しえたものがあるとすれば、それは神ではあるまい。悪魔ででもなければ、人間に、このような苛酷な試練を与えることはできなかったであろう。

 加藤友三郎はその心労のあまり、アルコールの助けを借りなければ眠ることもできず、終日、激しい胃の痙攣に悩まされ続けた。のち彼は、総理大臣の現職のまま、世を去ることになる。死因は、大腸癌であった。このときの心労が、彼の寿命を縮めたのである。

 眞之については、こんなエピソードがある──。

 ある日、幕僚会議が終ってからでも、参謀たちはバルチック艦隊の来路について、議論を戦わせ合っていた。

 夜も更け、各自散会した。

 とある参謀が忘れ物を取りに、作戦室に行った。

 作戦室のドアを開けたその参謀は、ギクリとなった。心臓が鼓動をとめ、身体が硬直した。

 真っ暗闇のその部屋の奥で、小さな二つの光が、妖しげに光っていたのである。

 当初、灯りの消し忘れか、と、思ったその光は、眞之の目だった。彼は他の参謀たちの懇談に加わらず、会議が終るとすぐにこの部屋に来て、長靴も脱がず、軍服姿のまま、ソファーに横たわっていた。

 そしてバルチック艦隊の来路について、ひとり悶々と、考え続けていたのである。

 このように、日本中の人々が懸念していたバルチック艦隊の来航路が判明したとき、来るべき日本海海戦の帰趨は決定された、と、云ってもいい。

 

 だからと云って、眞之は、いつまでもアホウ踊りしているわけにはいかなかった。

 参謀の任務は、この時点でほぼ終了していた。後は東郷を筆頭とする各艦隊司令長官の艦隊運用と、各艦各員の奮励によって、勝敗の帰趨を決するばかりだった。

 しかし眞之には、まだしなければならない仕事が残っていた。東京の大本営に打電する、電文の起草である。

 眞之は、兵員たちが慌ただしく各々の持ち場へと散っていく甲板上を、見たところ、悠然とした足取りで、幕僚室へと向かった。

――侍たるもの、めったなことで慌てふためき、駆けだしたりするものではない。

それが侍たるものの心得である。

伊予松山の御徒歩組十石取の下級武士の出身とは云え、眞之も立派な武家の子である。そう云った武家の躾が、明治の御世となって三十八年、眞之三十七歳の現在でも、その身には沁みついていた。

 幕僚室へと急ぐ眞之の脳裏に、ふと、ふたりの男の顔が浮かんだ。

 

 ひとりは、眞之の十歳年上の兄、秋山信三郎好古、で、あった。

――あのな、赤ん坊を、お寺にやっちゃ、いけんぞな。おっつけ、あしが勉強してな、お豆腐ほど、お金をこしらえるけんな。

 その頃秋山家は、貧窮の極みにあった。とてものことに、新しく産まれた子供を養育していけるような余裕もなく、自信もなかった。

 悩みに悩んだあげく、父が出した結論は――、

――どこかの寺に養子に出そう。

 と、云うものだった。

 その結論を、夜半、妻に切り出したとき、襖をあけて反対したのが、当時十歳だった、信三郎だった。

 信三郎は生まれたときから病弱で、母親の貞は――、

――苦労して育てても、こんなに脾弱い子では、先行きこの子も、不幸なだけじゃろう。

 と、思い詰めて、背負った子供(信三郎)とともに、橋の上から入水しようとしたことが、なんどもあった、と、云う。

 その信三郎が、このときは必死の面持ちで、産まれたばかりの赤子を寺に遣らないでくれ、と、懇願したのである。

 父久敬は、

――あの、弱みそ(弱虫)の、信三郎がのう。

 と、後々まで、目を細めて、語った。

 そのときの赤ん坊が、後の聯合艦隊先任参謀、秋山淳五郎眞之、である。

 眞之は自ら恃むところ頗る厚く、容易に他人に屈しない、傲岸な男であった。

 聯合艦隊の旗艦、三笠の幕僚室内にあっても、その自儘勝手な振舞いに、東郷が顰蹙すること、少なくなかった。

――あれはああいう男ですから。

 その都度、先輩の有馬良橘や、上司であるはずの島村速雄までもが取り成した。

 親戚の集まりがあっても、つねに自分が上座を占め、伯叔父、大伯叔父、相手がいかに年長者であっても、決してその座を譲ろうとはしなかった。

 そんな眞之であったが、兄信三郎好古にたいしてだけは、その姿が廊下の端にでも見えようものなら、自分の敷いていた座布団から即座に飛びのき、いままで自分が占めていた上座の座布団を裏返して――、

――ささ、兄さん、どうぞこちらへ。

 と、平伏するのであった。

 その兄、秋山信三郎好古は、いま満洲の野にあって、「世界最強」と謳われた、露西亜のコザック騎兵を相手にしている。

 

 好古は、「日本騎兵の父」と呼ばれた。

 明治維新政府が発足したとき、新政府の陸軍には、騎兵と云うものが存在しなかった。

――この狭隘な日本の国土のなかで、騎兵などを必要とする余地はない。

 と、云うのが、その理由だった。

 周知のように、明治維新政府は、欧米列強による植民地化への危機意識から発足した。その首脳たちの頭にあるのは、欧米列強による蚕食から、如何に国土を衛るか、であり、他国の領土に踏みこんで戦をする、と、云う発想はなかった。勢い、騎兵を必要とする考えもなかった。

 当時の日本には、西洋風の「馬」が、いなかった。現在われわれが知っている鵯越の戦い、桶狭間の戦い、長篠における武田騎馬軍団の存在、それらはすべて、後世に創作されたフィクション、物語である。日本には、かつて、兵を騎乗させて戦闘者の集団となし、それをもって戦さ場に臨む、と、云った考えはなかった。

 日本の馬は、戦闘に用いるには、あまりにも不適だった。馬格は小さく、体力も、速力も、なかった。西洋人から見れば、大きな犬、くらいにしか、見えなかった。実際、明治維新後に日本馬を見たとある西洋人士官は、「馬のような馬」と、冷笑したものである。

 日本の馬は、駕籠と同じく、上級将校の運搬用にすぎなかったのである。

 明治四年、廃藩置県を控えて、薩長土の三が、それぞれ自前の兵力を新政府に献上して、いわゆる御親兵なるものがつくられた。

 そのさい、土佐藩のみが、騎兵を有していた。二個小隊(馬数二十頭)であった。当然のことながら、いずれも日本馬であって、欧米の基準で云う騎兵とは云い難かった。

 日本の騎兵隊は、まず、西洋種の馬を育てるところから、始めねばならなかった。

 最初にしたのが、オーストリアから牝馬六頭を購入し、これを日本の馬と交配させることによって、少しでも騎兵としての用に立てる馬を育てることだった。

 爾来、三十有余年、好古は騎兵の成長とともに歩み、満洲の野で、「世界最強」と謳われた、露西亜のコザック騎兵を相手にしようとしている。

 

――秋山旅団長の指揮の下でなら、負けることはない。

 好古指揮下のすべての騎兵が、そう信じていた。

 実際好古は、その旅団をよく統率し、よく戦い抜いた。

 世界中の軍事関係者が、日本騎兵ではとても露西亜のコザックには敵し得まい、と、思っていたのが、みごとにこれを打ち破ったのである。

 のちに来日したフランスの騎兵指揮官が、

――秋山好古の生涯の意味は、満洲の野において、世界最強の騎兵集団を破る、と、云う、そのただ一点に尽きている。

 と、賞したとおりだった。

 日露の開戦が必至となったとき、好古は次のような意味の手紙を書いた。

「最早日露の開戦は避くべからざる処。かくの如き邦家の一大事に際し、弟は海、吾は陸にして、国家の難敵に会せんとす。これまた男子の痛快事ならん哉」

 日露の開戦が決定したとき、世界中の多くの人々が、

――これで地上から、“ニッポン”と云う国家は亡びるであろう。

 と、思った。いや、思った、のではなく、信じた。信じて、疑わなかった。

――ロシアの保護領で収まれば幸運だろう。

 それが世界の常識だった。

 日本でも、元老筆頭の伊藤博文などは、親しい者にもらしている。

「とても戦になど、なりゃせんよ。

 露西亜はシベリア鉄道を使って、武器も兵員も食糧も、どんどん輸送してこられる。

 ところが、我が国はどうじゃね。

 日本海を渡ってすべての物資を運ばねばならぬが、露西亜はこの極東に、旅順、浦塩の二大艦隊を配備しておる。このうちのいずれか一方だけでも、我が国の聯合艦隊に匹敵する陣容じゃ。

 もし我が国の聯合艦隊が敵し得ず、露西亜に海上権を奪われたら、どうなるね。

 我が国は兵員も物資も輸送することができず、半島や大陸にある我が陸軍の駐留部隊は、日干しにされてしまうだろう」

 それなのになぜ開戦するのか、と、問うと、

「やらにゃ、ならんのじゃ。

 このまま荏苒と時が過ぎれば、露西亜は満洲を取り、満洲の後には朝鮮を取り、朝鮮の後には、この日本を取ろうとするじゃろう。そうなる前に開戦して、できるかぎり露西亜の南下を食い止める。そうして、なんとか講和にもってゆく。それしか日本の生き延びる道はないんじゃ」

 伊藤が、恐露病患者、と、云われていたことを差し引いても、悲痛な思い、と、云って、いいだろう。

 伊藤は、開戦を主張する連中に向って、

「儂は君等の名論卓絶を必要としているのではない。軍艦と大砲の数に相談しておるのじゃ」

 と、云い放ち、

 時の総理大臣、桂太郎は、開戦を主張する東大の博士七人が彼の自宅を訪れてその意見を縷々して辞去した際、家人に向って、

「バカが七人、やってきおった」

 と、ニガニガしげにつぶやいたものだった。

 一説によると、この言葉は、総理桂太郎ではなく、元老伊藤博文の吐いたものである、と、云う。あるいは、大本営参謀総長山縣有朋の言とも云う。

 いずれにせよ、国家の重責をその両肩に担い、政治軍事の実際に任ずる人の言葉であったことは、論を俟たない。

 ニコポン宰相と呼ばれ、他人の御機嫌を取り結ぶこと当代絶妙、と、云われていた桂太郎にして、この苦言を吐かせて不思議でない、と、思われるるほどに、当時の状況は、緊迫したものだった。

 実際、これほどの国難に見舞われたのは、元国の襲来――文永・弘安の役以来、と、云っても、いいかも知れない。

 その国難に際し、日本の片田舎(と、云っては、失礼かもしれないが)、四国は伊予松山十五万石の、わずか十石取にすぎない御徒歩組に生まれた兄弟が、それぞれその重責に任じていた。

 それだけではない。先述したように、兄は「日本騎兵の父」と呼ばれ、陸にあって、とうてい敵し得ないと云われたコザック騎兵と対峙していた。

 弟は、その「智謀分くが如し」と称された脳髄を絞りつくして、海にあって、バルチック艦隊撃滅の策を練っていた。

 まさに奇蹟としか云いようのない、歴史の演出である。

 

 歴史の演出は、いま、眞之を、三笠の幕僚室へと、急がせている 

 その眞之の脳裏に浮かぶ、いま一人の人物は、彼の幼馴染み――ノボさんだった。

 ノボさん――正岡升、と、云うよりも、俳人正岡子規、と、云ったほうが、分かり易いだろう。

 ふたりは幼少時からの知友であった。が、その性向は、大いに異なっていた。むしろ、正反対、と、云ってもよかった。

  眞之は――、

――秋山の淳さんは、恐くて好きだった。

 と、云われるように、強烈な腕白小僧だった。

 あるときなど、そのあまりの腕白ぶりに業を煮やした母親が、彼の前に短刀を突きつけて、

「淳、これでお死に。私もあとから死にます」

 と、眦を決したものだった。 

――淳さんのきょうとがる(恐とがる=こわがる)んは、信三郎兄さんくらいのもんじゃ。 

 それが、松山の腕白小僧時代から始まって、日露戦後に到るまでの、眞之に対する、評の一つだった。そしてそれは、的確に過ぎる評だった。

 一方のノボさんは――、

 終生彼をかわいがっていた母親も、外祖父の大原観山も――、

――これはなんとしたことじゃ。

 と、嘆息することが多かった。

――ノボさんほど臆病な子もいない。

 それが松山城下での評だった。

 これが農民や、町人の子ならばまだいい。

 ノボさんの家は、立派な侍、それも、御馬廻格、と、云う、歴とした上士の家柄なのである。

 その上士の嫡男が――、

――能狂言を見に云っては、鼓や太鼓の音が怖い、と、云っては泣き出し、

――同い年の子どもたちの喧嘩にあっては、真っ先に逃げ帰って押入れの中で震え、

――あげくには、隣屋敷の塀から下女が顔を出したのが怖い、と、云って、泣きながら帰って来る……

 と、云うのだから、母親や外祖父が嘆息したのも無理はなかった。

 しかしそのノボさんが、近代、明治維新以降、我が国の国文学――とりわけ、和歌俳句――に、革命的な変革をもたらすのだから、人間とは、解からないものである。

貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候」

 当時紀貫之を崇敬し、歌詠みの手本として崇め奉っていた人々にとっては、冒涜にも等しい言葉だった。

 ノボさん――子規は、その後も、歌壇俳壇にたいして、激烈な攻撃の言葉を浴びせ続けた。

 眞之はその様子を見ながら、

――あの弱みそのノボさんが……

 と、驚嘆せずにはおられなかった。

「お身さんは、あしなんぞよりも、よっぽど、勇敢じゃ」

 あるとき、病床にあるノボさん――子規を見舞った眞之は、心の底から、そう云った。

「軍人の淳さんにそう褒められては、どがいにもならんのぉ」

 ノボさんの頬には、もはや血の気がなかった。しかしそれでも、嬉しそうに笑うノボさんの顔は、松山の頃から慣れ親しんだ、昔ながらの、ノボさんの顔だった。

 眞之が初めてノボさんに会ったとき――そのときノボさんは、髷を結っていた。

――丁髷頭を叩いてみれば、因循姑息の音がする。

 と、云われた時代である。

 ノボさんは、“髷ノボさん”と云われて、みなから調戯われた。

 そしてその都度、泣いて帰った。

 眞之も何度か揶揄ったことがある。

 しかし、そんな弱みそのノボさんを揶揄いながらも、どこかに、引け目を感じるところがあった。

 喧嘩や腕力だけでは勝てない、人間としての、度胸のありかた、そんなものが、ノボさんにはあった。

 眞之とノボさんは、故郷松山の勝山小学校、松山中学校、そして東京の共立学校、大学予備門、と、つねに同じ人生を歩んできた。

 そのふたりが訣別することになったのは、眞之が大学予備門を辞して、海軍兵学校へ進んだためである。

――立身出世なにものぞ。ともに文学を究めよう。

 と、手を取り合って誓い合った、その誓いを破っての、海軍兵学校への進学であった。

 このことは眞之にとって大きな負い目となり、以後、ノボさんとは疎遠になった。

 ノボさんはそんなことに頓着しなかった。もともとが、細かいことにこだわらない、鷹揚闊達な性格である。

――なんで淳さんはあしを避けるのじゃろうか。

と、首をひねっては、

――海軍に行ったからとて、そがいに気にすることもあるまいに。

 そう思っていた。

 ちなみに、子規と漱石の交友も有名だが、子規が病床に臥せっている頃、漱石は国費留学生として、ロンドンに滞在していた。

 日本における英語教育法の研究のため、と、云うのが、その理由であったが、漱石はそれに、英文学の研究をも加えることを承知させて、彼の地に赴いた。

 漱石はこのロンドン滞在中、文化や生活習慣の違い、一向に進展せぬ研究成果のために、極度の神経衰弱に悩まされた。その精神緊張――現在で云うところの“ストレス”――は、おなじ日本からの留学生をして、「夏目、狂せり」と、本国に打電せしめるほどの状態に陥っていた。

 漱石自身、後にこの時期のことを回想して、「文学に裏切られた」、「もっとも不愉快な二年間」と、述べている。

 ノボさんは自ら病床にあって、漱石からの来信がないことをいぶかしみ、

――あいつ、またなにか、抱えこんどるんじゃろか。

――人一倍神経質なくせに、強情で、素直に、苦しい、と、云えんヤツじゃけんのぉ。

 と、その身を気づかった。

 眞之と同じく漱石も、この時期、自分のことだけにかまけて、病に苦しむノボさんのことを気遣ってやれなかった自分を、生涯、責め続けた。

 ノボさんがこの世を去ったのは、明治三十五年九月十九日のことだった。

 十七夜の月明が輝く夜だった。

――子規逝くや十七日の月明に

 そう詠んだのは、ノボさんがかわいがっていた門弟のひとり、高浜虚子である。ノボさんにとっては、同郷の後輩でもある。

 ノボさんは旅を好んだ。見知らぬ土地を訪れ、その風景、物産、人気に接するのが好きだった。そして、目にし、耳にし、肌に触れたそれらを、歌に詠み、句に立てた。

――淳さんはええのぉ。

 眞之が米国留学から帰国し、ノボさんの家を訪ねたとき、ノボさんはいかにも羨ましげに云った。

――あっちゃやこっちゃ、日本どころか、亜米利加にまで行けて。

 まるで眞之が、物見遊山であちこちを巡り歩いているかのようなその口ぶりに、眞之は苦笑を禁じ得なかった。

 ノボさんはすでに病魔に蝕まれており、とてものことに、長期の旅行に耐え得る身体では、なかった。

 それでもノボサンは、対清国戦争が勃発すると、居ても立ってもおられず、従軍記者として大陸に渡ることを希望した。

 当然のことながら、周囲のものは猛反対した。

 母や妹、かかりつけ医、新聞の仲間や上司たち、みなこぞって、ノボさんの渡清には反対した。

 しかし、ノボさんは諦めなかった。執濃く、粘り強く、周囲の人々を説伏し、遂にはみずからの希望を成就させた。

 幼い日、伊予松山から東京に出るときもそうだったが、ノボさんには、これ、と、思い込んだら、一念一途に、それを成し遂げようとする執着力、根気強さがあった。

 周囲の者は、たいがい根負けして、その思うようにさせるのだった。

――ノボには、待て、しばし、が、ないけに。

 と、母親のお八重は、すでに諦めたように、しかし心のどこかで、その一途さを誇るかのように、苦笑したものである。

 ノボさんは、ようやく念願かなって、清国に渡ることになったが、その頃にはすでに戦いは止み、講和の談判が開かれようとしていた。

 ノボさんは徒らに戦場跡を眺め歩くほかなく、ひと月ほどで、帰国の途に就いた。

 そしてその帰国途上の船中で喀血し、緊急入院した須磨明石の保養院で、生死の境を彷徨うことになったのである。

 ノボさんの渡清は、彼の寿命を縮め、その生命を奪う引き金となった。

 

 日清戦争は、戊辰の内戦を経て成立した維新政府が初めて遭遇した、本格的な対外戦争だった。日本史上では、太閤秀吉藤吉郎の朝鮮出兵――文禄慶長の役以来のものだった。 

 それまで「藩」の枠組みのなかで暮してきた人々にとって、明治維新政府が成立して日本が統一国家となり、「国民」となっても、そのことを実感した人は、ほとんど、いなかった。

 日本中の人々が、「国民」としての実感を抱いたのは、おそらく、この対清国戦争のときだったろう。

 多くの日本人が、この戦争に興奮し、熱狂した。

 各地に義勇兵志願の運動が巻き起こり、それを抑えるために詔勅が下されたほどだった。

 新派劇の創始者として有名な川上音二郎は、「支那征伐」と云う芝居を上演し、大当たりをとった。

 各地で献金献納の動きが盛んとなり、政界も新聞界も、挙ってこの戦いを称揚した。

 後の日露戦争に際して、非戦論を唱えた内村鑑三も、このときはこの対清国戦争を捉えて「義戦」と称した。

「東亜の平和を攪乱する清国を討つべし」

 と、云うのが、おおかたが唱えた名分だった。

 ノボさんも、当然のように熱狂し、従軍記者として渡清することを望んだのは、先述したとおりである。

 ノボさんが従軍記者として渡清を望んだのはしかし、たんに日本初の対外戦争の興奮と熱狂によるものだけではなかった。

 ノボさんはこの日本初の対外戦争の現場に身を置き、現地の状況を、じかに、その目で見、その耳で聞き、その鼻で嗅ぎ、その肌で感じ取ろうと欲した。

 そしてみずからの実感した日本初の対外戦争の状況を、新聞の紙面に、記事として、あるいは短歌として、俳句として、みずからの提唱した「写生」の理念をもちいて、表現しよう、と、野望したのである。

 

 ノボさんは生涯、「写生」と云うことを云い続けた。 

 空想や想像ではなく、見たまま、聴いたままを、素直に表現するその手法は、小手先の理屈や言葉遊びなどをもって成り立っていた当時の俳風に、大きな衝撃を与えた。

――天然自然は、それだけで、充分、きれいなもんじゃ。それを小手先でゴチャゴチャいじくりまわす必要なんぞないぞな。きれいなもんは、そのまんまで、充分、きれいなんじゃ。

――言葉数もいらん。くどくど説明したところで、美しさっちゅうもんは伝わらん。

ズバリ、と、単純明快に言い切ってこそ、美しさっちゅうもんは、表現できるんじゃ。

――芭蕉のな、「古池や 蛙とびこむ 水の音」っちゅう句があるじゃろう。

寂しきを、寂しと云わずして、寂しさを思わせる。それこそが、「写生」の妙味ぞな。

――「五月雨を 集めて速し 最上川」っちゅうのは、いけんぞな。「集めて」も、「速し」も、それを見とった人の判断が入っとる。集まっとるか集まっとらんか、速いか遅いかは、人間の判断ぞな。

 それにひきかえて、「五月雨や 大河を前に 家二軒」ちゅうのはええ。

 情景を詠んどるだけなんじゃが、それでも、五月雨の烈しさ、大自然の凄さ、それに遭遇した心細さが、巧く表現されとる。これはええ句じゃ

 それがノボさん――正岡子規の、「写生論」だった。

 

 いま眞之は、戦艦「三笠」の幕僚室にいる。

「秋山中佐、本国への文案、これでよろしいでしょうか」

 幕僚のひとりが、紙を差し出した。

――敵艦見ユトノ警報ニ接シ 聯合艦隊ハ直ニ出動 之ヲ撃滅セントス

 一瞥した眞之は、

「ええじゃろう」

 と、その紙を返した。

 ところが、

「ああ、待て、待て」

 その男を呼び止めた。

 そして、テーブルの上に転がっていた鉛筆を拾い上げると、

「貸してみい」

 と、その紙を取り上げると、

――本日 天気晴朗ナレドモ 波高シ

 と、付け加えた。

 かつて上村彦之丞率いる第二艦隊は、日本海に発生する濃霧のために、幾度も浦塩艦隊を逃してしまった。今回は天気晴朗なるがゆえに、そのような濃霧の発生する心配もなく、したがって、バルチック艦隊を取り逃がす恐れもないであろう、と、云う意味である。

 また、波が高ければ、腰高な露西亜の軍艦は不安定となり、防御の弱い下腹部をさらすことになる。それに比して、重厚な日本海軍の艦艇は腰が据わり、砲撃も安定するであろう、との意味を込めての、電文であった。

 この電文の起案に加わった飯田少佐は、

――あの一句を挿んだだけでも、我々の頭脳は秋山さんには遠く及ばない。

 と、後々までも、感嘆したものである。

 その一句を加えた電文を持って走り去る同僚の後ろ姿を眺めながら、眞之は、ひとり、胸につぶやいた。

――ノボさん、これが、お身さんから教おうた、あしの、「俳句」ぞな。

 日本の命運をかけた戦いが、いま、始まろうとしている……。