夫婦塚由来~「百池ヶ村郷土史」より
類家 正史
信州松本からJR大糸線に乗り換えて、古びた二輌連結の客車に揺られること約二時間、最初は物珍しかった山間の景色にも漸く飽きてきた頃、列車は「百池ヶ村」と看板の懸った、納屋の如き無人駅に到着する。
長野県の北西に広がるこの村は、北は虎臥連山を境として新潟と接し、西は白鹿連山を境として富山と接している。この両連山の麓にスキー場があるのだが、殆どの客は白馬方面に流れてしまい、余程の事情通ででもない限り、この村まではやって来ない。
村は林檎の栽培と酪農を主な生業としている。いったいにこの地方は、田畑の耕作には不向きな土地柄で、それはこの百池ヶ村も例外ではなく、かつては、村民たちの糊口を凌ぐのもやっと、と、云う、有様だったが、明治の中頃から酪農が始まり、更に大正の末年から昭和の初頭にかけて、広範く林檎の栽培が行われるに及んで、漸く村民たちの生活も豊かになり始めた。現在、百池ヶ村の林檎酒やアップル・サイダーと云えば、そのさわやかな口あたりや、ふくよかで丸味のある味わいによって、若い女性たちのあいだで、ひそやかな人気を呼んでいる、とのことである。
この林檎酒などとともに、最近になって注目を浴び出したのが、スキー場近辺に軒を連ねる温泉宿である。口コミの威力というのはバカにできないもので、近年この村の温泉群が、リュウマチや神経痛、それに肌の美容や各種の皮膚病にも、その効能バツグンであるとして、徐々にその人気を増して行ったのである。
百池ヶ村はその広大な面積を、ヒトデの足のように伸びた背の低い山々によって分断されているため、交通の便はいたって悪い。しかし都会の喧騒に疲れた人々にとっては、なまじ多くの湯治客によって俗化され、半ば観光地化した温泉地などよりも、この村のような鄙びたところのほうが、かえって有り難いのかもしれない。たしかに、煩瑣を避けて、都会の塵労を洗い落とし、ゆったりのんびりくつろぐには、この村の温泉街は、恰好の場所であろう。
村内に百の池がある、と、云うところから、百池ヶ村、と、名付けられた、と云われているが、その池というのは、実は温泉のことである、という説もあるくらい、この村には温泉が多い。百は云い過ぎとしても、大小取り混ぜたその数は、決して少ないほうではない。なかでも一番有名なのが、村の北西に位置する、慈恩温泉である。
その昔、この地方に流行り病が起こって村民たちが苦しんでいたところ、諸国を遍歴されていた弘法大師が、たまたまこの地を通りかかった。村民たちの苦しみを不憫に思われた大師は、村の端れに温泉を開き、その傍に小屋を立ててそこを仮の住と定めると、村中の病人たちが快癒するまで、滞在なされた。村民たちは大師の厚恩に深く感謝し、大師の開かれた温泉を慈恩温泉と名付け、子々孫々にまで、その高徳を伝えることとした……。
これが現在に伝わる、慈恩温泉の由来である。現在では村のほとんどの温泉宿がこの付近に集中して、たがいに本家元祖のあらそいを繰り広げている。
この温泉に来ようという人は、百池ヶ村駅前のロータリーから出ている、慈恩温泉行のバスに乗ればよい。所要時間は、約一時間と三十分。少々長い道のりだが、これは先程も述べたように、村内が背の低い山々によって分断されているため、山をひとつ、越さねばならないからである。
駅前の商店街には、喫茶店や大衆食堂、みやげ物屋などが、構えを連ねている。一軒ずつだが、コンビニやゲーセン、カラオケ・ボックスもある。駅前から少し行ったところの横丁には、何軒かの飲み屋も軒を並べている。村で一番高い建物が五階建ての百貨店と量販電気店で、それも駅前から見渡すかぎり、二軒ほどしか見あたらない。坂道が多く、起伏にとんだ町並みだが、視界をさえぎるような高い建築物がないため、彼方の山なみがはっきりと見える。道も片側二車線の道路といえば、駅前から北方にのびる大通りと、スキー場のふもとを東西に走る百池ヶ村街道ぐらいで、この二本が、村の主要街道になっている。
都会の喧騒に疲れた身には、桃源の里のような別天地である。せわしない日常の俗塵を洗い落として命の洗濯をし、心身ともにリフレッシュするには、絶好の土地である。
しかし、人は見かけによらないというたとえもあるが、それは村も同じである。一見のどかで平和に見えるこの村にも、その長い歴史のうちには、実に血なまぐさい、やりきれなくなるような話もあったのである……。
それは、天保七年と云うから、西暦でいえば一八三六年、徳川幕府の治世も末期にさしかかっていた頃のことである。
幕府の統治能力は、限界に達していた。諸藩の財政はすでに破綻の様相を呈しており、農民は重い年貢と深刻な飢饉に苦しんでいた。
翌年、大坂に勃発した大塩平八郎の乱に象徴されるように、当時は全国が大飢饉にあえいでいた。世に云う、天保の大飢饉である。
先述したように、この地方はもともと耕作には不向きな土地柄だったが、それがこの飢饉によって、潰滅的な打撃を被った。打ち続く凶作に、一俵の米も収穫できない年が続いた。少ない蓄えはすぐに底をつき、村はたちまち、飢餓のどん底に落ち込んだ。粟や稗の水粥をすすっていられたうちはまだいいほうで、ついにはネズミや犬猫を殺してその肉を喰らい、或いは草の葉や木の根ッ子、木の皮までをも口にして、飢えをしのがざるをえないところにまで追い込まれた。
年寄りや子どもたちが次々と亡くなり、やがて若い娘たちの姿が見えなくなった。
飢えた家族たちの命をつなぐため、或る者は遊女となり、或る者は妾となって、あちこちの町に売られていったのである。いつの世にも、犠牲となるのは女である。
三々五々と売られていく娘たちのなかに、みずほの姿があった。
みずほには平八という、将来を誓い合った青年がいた。平八は庄屋の息子だったが、当時のような状態のなかにあっては、庄屋もなにも、あったものではない。平八はなすすべもなく、村をあとにするみずほの姿を見送る以外になかった。そのときみずほは十五歳、平八は十七歳だった。
愛する女が売られていくのを、ただ黙って見ているしかなかった平八は、それからの数年というもの、食うものも食わず、がむしゃらになって働いた。朝は朝星、夜は夜星を頂いて、ただひたすらに鋤鍬をふるい、真ッ黒になって働いた。痩せ細っていく身体をものともせず、村民たちとはおろか、両親とすら、ほとんど口をきかなくなった。襤褸のような野良着をまとい、蓬髪を振り乱して仕事に明け暮れるその姿は、まるで何かに、取り憑かれたかのようだった。
――平八のヤツ、気が触れよったんじゃ。
村の人々は、口々にそうささやきあった。
そうして、数年の月日が過ぎていった……。
或る年の冬、平八は血を吐く思いをして貯めた銭をもって山を越え、みずほの売られた先を訪ねていった。
山を越え、数里の難路を歩き、貧しい衣服を襤褸となし、足袋の破れた足に血を滲ませ、ようやく彼は、とある街道沿いの宿場町に暖簾を出している、一軒の女郎屋にたどりついた。
あかぎれのにじむ足でその店を訪ねた平八は、みずほが数日前に、そこを逃げだしたことを知らされた。みずほは、その容姿艶色たり、また、気心細やかであったため、店一番の稼ぎ頭だったが、その待遇は他の遊女同様、牛馬にも劣るものだった。いや、店で一番多くの客を取らされていただけに、その待遇はいっそう苛酷なものだったといえるだろう。
とまれ、店一番の稼ぎ頭が逃げ出したということで、店では奉公人たちを走らせて、厳重な捜索を行った。そこに平八が、みずほを訪ねてきたのである。
平八はその場で捕らえられ、執拗にみずほの行方を追求された。みずほが身を隠しそうなところを、なんとしても聞き出そうというのである。尋問は熾烈をきわめ、拷問は三日三晩にわたって続けられた。平八はボロボロになり、あげくの果てには、敝履のごとくに放り出された。
数年にわたって酷使し続けてきた肉体に、三日三晩の拷問は致命的だった。雪降る裏路地に放り出されたとき、彼はもはや、人間の残骸というにすぎなかった。骨と皮だけに痩せ細った身体は、いたるところ鞭打たれ、ズタズタになった皮膚から滲みだした血で、全身が赤黒く染まっていた。瞼も鼻も、いや、顔全体が、紫色に膨れあがり、唇は裂けて、何本かの歯がへし折られていた。歯だけではない。脚も腕も、肋骨も、指の骨にいたるまでが、へし折られていた。鼻からも口からも血を流し、両手両足の爪はことごとく剥がされていた。垂れ流した大小便は下半身にこびりつき、流れだした血と混じり合って、異様な臭いを放っていた。
それでも平八は生き延びた。死ぬわけにはいかなかった。
彼は木の枝にすがって身体を支え、気息奄奄たるありさまで村に戻ってくると、しばらくは泥のように眠って、その体力と気力とを回復した。
目覚めたとき、平八は鬼と化していた。愛する女にも会えず、苦労して貯めた銭は巻き上げられ、店の者にさんざんいたぶられて、幾度となく三途の川を渡りかけた平八には、ひとつの確信があった。それが彼の命をつなぎ、彼を村に戻らせて、彼を鬼と化したのである。平八は、店の者がみずほを隠している、と、堅く思い込んだのである……。
黒雲が空を覆い、雪がはげしく降りしぶく、或る夜のことだった。丑三ツの闇に沈んでいた宿場町に、ときならぬ喚声と、けたたましい悲鳴が響きわたった。
尋常ならざるその物音に、なにごとならんと外をのぞいた町の人たちは、夜にふぶく雪をすかして、天を焦がすが如くに燃え上がった、地獄の炎を見た。耳は阿鼻叫喚の叫びを聞き、目は逃げまどう亡者の群れを、彼らを追い回す獄卒たちの姿を見た。
異様な光景だった。亡者の如く逃げまどう人々は、夜とはいえ、立派な着物をまとっていた。それに対して獄卒たちが身につけていたものといえば、それこそ亡者さながらの、粗末なものだった。彼らは手に手に竹槍や鋤鍬をもち、逃げまどう人々に襲いかかっては嬲り殺しにした。それはまさに、この世の地獄だった。
その地獄に現れた、残忍無残な獄卒たちこそ、平八に率いられた、村の若者たちだった。
長き眠りから覚め、鬼と化した平八は、村の若者たちを煽動して、彼らの恋人、許嫁、幼なじみや妹の売られていった先を襲撃したのである。
事を起こすにあたって彼らはまず、みずほの売られた先を襲撃した。
物音に驚いて起きだしてきた店の者たちは、雨戸を破って乱入してきた平八たちの手にかかって、たちまちのうちに絶息した。彼らはところ狭しとばかりに暴れまわり、店の者たちを殺害しては、売り飛ばされていた娘たちを解放した。しかし、店中を破り壊して回ってみても、みずほの姿は、ついに見あたらなかった。そしてそのことが、平八の憤怒を、よりいっそう激しくした。彼らは娘たちを助け出すと、目ぼしい金品を略奪し、店のあちこちに火をかけた。そして威勢のよい鬨の声を挙げた。
地獄がはじまった。
平八たちは次々と富裕な商家――米屋、酒屋、呉服屋、高利貸し、女郎屋など――を襲い、店の者と見るや、手当たり次第にこれを殺戮した。そして金品を強奪しては火を放ち、売り飛ばされていた娘たちを解放した。しかし何軒の家を襲撃しても、みずほの姿だけは、一向に見あたらなかった。
平八はますますいきりたち、それに比例して、暴虐の度合もますます烈しくなった。降りしぶく雪をもものともせず、愛する女の姿を求めて荒れ狂うその姿は、梵天帝釈を蹴散らす阿修羅さながらだったと、『百池ヶ村郷土史』は伝えている。
彼らの暴動は、数刻後には藩政府の知るところとなった。払暁とともに、藩の軍勢が動きだした。憤怒に燃え、烈火の如くに暴れまわる平八たちも、組織的な藩の軍勢を相手にしては、勝ち目はなかった。
藩兵の火縄銃から逃れ、槍衾をかいくぐって村へと逃げ帰れたのは、平八はじめ、わずか五、六人余りだった。
命からがら村へと逃げ帰ってきた平八たちを出迎えたのは、竹槍で武装した、村の大人たちだった。平八たち村の若者が引き起こした事態を知った村民たちは、自分たちに後難の振りかかるのを恐れ、もし彼らが村に戻ってくるようなことがあれば、自らの手で彼らを捕縛し、その身柄をお上に引き渡すことによって身の安泰を図ろうと決議したのである。
平八は庄屋の息子だったが、それだけに、事は重大だった。事は村全体の死活にかかわるものだった。それだけに庄屋といえども、その決定に反対はできなかったのである。
平八は捕らえられた他の仲間たちとともに、磔刑に処せられた。彼は三尺高い柱の上にくくられながらも、竹矢来に群がる人々のなかにみずほの顔を捜し求め、その名を叫びつつ、刑吏の槍に貫かれた、と云う。
その夜、虎臥山の山中で、凍死したみずほの死骸が発見された。売られた先からやっとの思いで逃げだし、極寒の山中をさまよったあげくの死だった。身にまとった着物はズタズタに裂け、裸足の足は血にまみれていた。身体中生傷だらけで、ほどけ乱れた黒髪が、血の気の失せた蒼白の顔を覆い、その合間からは、両眼が虚ろに見開かれていた。もはや生命の焔を宿さぬその瞳は、かつて平八と過ごした懐かしい村を、幼き日々の思い出のこもる、幸せに暮らした生まれ故郷の村を、じっと見凝めていたという。
翌年のことである。
みずほの売られた先の大旦那は、平八一党の打ち壊しのときにも九死に一生を得、以前と変わらぬ日々を送っていたが、ある夜突然、原因不明の高熱を出して床に就き、三日三晩苦しんだ末に、口から黒い血を吐いて悶死した。その苦しみようは一通りではなく、家人たちは、何かの祟りではないかと、恐れ慄いた。
一方村のほうでは、雪の降る夜に、村人たちが凍死するという怪事が続発した。それにともなって、美しい女の幽霊が出る、と云ううわさが広まった。その女は、見たところ十七、八歳、みめよき娘で、降り積もる雪よりも白い肌をもち、吹きすさぶ風につややかな黒髪を靡かせた、ゾッとするような美少女だったと云う。
『百池ヶ村郷土史』と云う民間伝承を集めた小冊子のなかに、その幽霊に遭遇した、或る村人の話が残っている。
それはことのほか寒さの厳しい、或る夜のことだった。彼は友人の一人とともに、隣村からの帰途にあった。
暮れ方から降りだした雪はいよいよその勢いを増し、この分ではまた吹雪になるかと、二人は首をすくめて、足を早めた。
そのときである。彼らは烈しくふぶく雪のなかに、白い着物をまとった、うら若い乙女の姿を見たのである。
彼らは驚きのあまり、その場に腰を抜かしてしまった。雪降る夜に現れる美しき幽霊のうわさは、彼らも耳にしていたのである。
彼女は、まるで宙を滑るように近づいてくると、彼の連れに向かって、何やら耳打ちするように身をかがめた。彼の連れは目を見張り、顎を落として首を振った。その眦は裂けんばかりに見開かれ、面には、驚愕の表情が凍りついていた。
娘はかがめていた身体をスックと伸ばすと、今度は彼のほうに近づいてきた。すると彼の連れは、喉の奥から、ヒューッ、という奇怪な音を漏らし、憑きものが落ちたようにぐったりとくずおれた。
彼は生きた心地もなく、ただ震えているだけだった。全身が麻痺したように痺れ、その幽霊から、目をそらすことさえ出来なかった。
彼女はそんなことには頓着せず、ゆっくりと、滑るように近づいてくると、さっきと同じように身をかがめ、彼の耳元にささやいた。
――平八さんは、どこにいる?
それは耳に聞こえたというよりも、頭のなかに、じかに話しかけられたような感じだったと云う。
彼は何と答えてよいか分からず、ただガチガチと、歯を打ち鳴らすばかりだった。口のなかはカラカラに乾き、舌はひきつって、口蓋に張りついた。彼はやっとのことで生唾を呑み込むと、なにやら自分でも訳の分からぬことを口走った。
彼が恐怖に怯えた目で見ていると、娘はすっと身を離し、いずこともなく、去っていった。
彼は長いことその場にへたり込んでいたが、降りしきる雪の寒さが、その意識をハッキリさせた。彼は大慌てで家に戻ると、頭から布団をかぶってその夜を過ごした。
その後彼は、三日三晩と云うもの、烈しい高熱に浮かされ、悪寒に慄え、悶え苦しみながら床の上を転げまわり、しきりとうわ言を発した。
三日後、彼は大量の黒い血を吐いて、絶息した。みずほの売られた先である娼家の大旦那と、おんなじ死にざまだった。彼は、平八たち村の若者をお上に売り渡すことを最も熱心に主張した大人たちのひとりだった。
他の大人たちも、つぎつぎと、不審な死に見舞われた。
ひとりはある夜、憑かれたような足どりで崖端まで行き、そこから転落した。ひとりは突如、なにやら大声で喚きながら着ていた服を脱ぎ、素っ裸になって、森のなかへと駆け出して行った。或る大人は、仲人を務めた宴席でいきなり暴言を吐きはじめ、新郎の頭を殴りつけて大笑し、そのまま発狂してしまった。
その現場を目撃した村人たちの話によると、いずれの場合でも、白い着物をまとった、うら若い乙女の姿があったと云う。
娘の幽霊がみずほであることは間違いなかった。彼女は死して後もなお、愛しい男の姿を求めて、雪の山野を彷徨っていたのである。
その事を知った村人たちは、それまで別々の場所に、犬猫同然に埋めてあった二人の亡骸を掘り出し、丁重な供養を行ったのち、あらためて、二人一緒の墓に埋葬した。
その墓は、現在、「夫婦塚」と呼ばれて、虎臥山の中腹にある、葛葉神社の一角に奉られている。
以上が百池ヶ村に伝わる、雪女伝説のあらましである。この伝説の最後を、『百池ヶ村郷土史』は、次のような文章で締めくくっている。
「現在でも雪の烈しい冬の夜には、白い着物をまとった、うら若き乙女の幽霊が出ると云う。もし彼女に、『平八さんは、どこにいる?』と訊かれたら、迷わず『葛葉神社の夫婦塚』と云えばよい。するとその幽霊は、あなたに害をなすことなく、その姿を消すであろう。」