8. 戦いの後

 カルヴェラたちを撃退できたことで、村人たちは、戦いに対する自信を強めました。

 それまでの、思い描いていた戦いに対する恐怖が強ければ強いほど、実戦を経た後での戦いに対する彼らの自信は、強くなります。実際に戦ってみれば、思っていたほど恐ろしくもない、と、思えるのです。

 一方で、ソテロのように、かつてない恐怖を体験した村人たちもいます。彼らにしてみれば、それまでの、思い描いていた戦いに対する恐怖が、実際のものとなって襲ってきたのです。

 かつてない恐怖を体験しながらも、ソテロたちは、もう二度と同じような恐怖を体験することはない、これでカルヴェラたちは他所の村へ行くだろうと、安心しています。

 このまま無理矢理この村を襲い続ければ、カルヴェラにも被害が生じます。それよりも、抵抗されることのない、同じような村を新たに見つけ出して襲うほうが、カルヴェラたちにとっては得策なはずで、カルヴェラたちはきっとそうするだろうと信じています。

 ソテロはクリスとヴィンに対して、友だちと呼びかけ、村のために命を懸けて戦ってくれた恩人、と、感謝の言葉をささげます。

 ソテロと村人たちが、クリスとヴィンに謝意を表し、乾杯しようとしていたところに、一発の銃声が響いて、村人の一人が手にしていたカップが砕かれます。

 銃声が続き、麻袋や壁に銃弾が中ります。

 カルヴェラはこの村を諦めたわけではなさそうです。ソテロの思惑ははずれました。その表情が、忌々しげに、不安げにゆがみます。

 銃声のする村はずれに、クリスやヴィン、ブリット、オライリー、チコ、それに村人が一人、集まります。

 様子を窺いますが、敵の姿は見えません。銃声から、クリスが敵は二人らしいと推測しますが、ブリットは三人だと断言します。

 突然チコが、敵を挑発するようかのように身をさらし、銃を撃たせます。

 チコはいったん隠れますが、再び敵の視界に躍り出ます。銃声がとどろき、チコは帽子を撃ち飛ばされ、慌てて身を翻して、石壁の陰に伏せ隠れます。

 ヴィンもオライリーも、その無謀な行動に呆れ返ります。

 敵の正確な人数を知ることは、重要な意味をもっています。チコの行動は、敵の人数を知るためには有効な方法ですが、他面、無謀な行動でもあります。自らを的にして敵に銃を撃たせることで、その人数を確認するのです。命を落とす危険が充分にあります。ここで命を落としてしまえば、たとえ敵の人数が分かったとしても、クリスたちにとっては大きな痛手になります。

 ヴィンにもオライリーにも、それが分かっています。

 未熟なチコには、勇気と無謀との区別がつきません。敵の人数を確認するために有効と思えば、危険をかえりみず実行するのがガンマンとしての勇気だと、勘違いしています。

 結果として、チコは命を落とすことなく、敵が三人であることが分かりました。

 人数は分かりましたが、その姿は見えません。

 クリスたちは分散して、索敵に向かいます。

 オライリーが残って後詰を引き受け、チコは裏手を、ヴィンと村人が一方を、クリスとブリットが他方を受け持ちます。 

 オライリーのところに、三人の村の子どもたちがやって来ます。

 オライリーは驚き、危ないから帰れと叱りますが、子どもたちは帰ろうとはしません。

 危ないのはおじさんだって同じだと云うのです。

 オライリーが危ないところにいるのは、それが仕事だからであり、プロのガンマンだからです。ガンマンである以上、危険は付き物です。チコのように、いたずらに危険を冒すのはたんなる無謀と異ならず、プロとしては失格です。しかし、危険を恐れていては仕事になりません。危険と安全のギリギリの境界を察して、そのギリギリの境界で仕事をこなすのが、プロとしてのガンマンです。オライリーたちは、ガンマンとしての厳しい生活──まかり間違えば命を落とすほどの危険な生活──を経ることによって、プロとしての伎倆と感覚を磨いてきています。

 社会での諸関係に巻き込まれていない子どもたちには、村の大人たちや、ガンマンたちの感じる深刻な危険や怖さは、感じることも、理解することもできません。

 子どもたちは、危険や怖さを感じることも理解することもできず、危ないから隠れているよう云われても従いません。危険や怖さを感じないことが、危険や怖さに対する無知であり無感覚であることを理解できず、勇敢だからだと勘違いしています。

 三人の子どもたちがオライリーのところに来たのは、くじ引きの結果、彼らがオライリーに当たったからです。子どもたちはくじ引きをして、それぞれ担当のガンマンを決めました。子どもたちはそれぞれ担当のガンマンが殺されたら仕返しをし、そのガンマンの墓にいつも綺麗な花を飾ってその死を弔うと云うのです。

 子どもたちにとってガンマンのおじさんたちは、カルヴェラたちと戦う、勇敢なおじさんたちです。子どもたちは、自分たちもガンマンのおじさんたちと同じく勇敢であると思っています。ガンマンのおじさんが殺されたら仕返しをし、その墓をいつも綺麗に飾っておこうとするのは、ガンマンのおじさんたちに対する、子どもたちなりの、仲間意識であり、好意の表れです。

 それを聞いて、しかし、オライリーの表情は渋くなります。

 子どもたちは社会での諸関係が希薄であり、それゆえに悪意がありません。言い換えれば、悪意を生ずるほどに、社会での諸関係を形成する立場にありません。一方、それゆえに、深刻な危険や怖れを感じたり理解したりすることができず、人の死や戦いに対する深刻な関心も生じません。

 オライリーの経てきた生活では、他人との関係のほとんどは、金銭による繋がりでしかありませんでした。たとえ銃の伎倆を買われて雇われたとしても、敵はもちろん、その雇主や味方からでさえ裏切られ、あるいは死を望まれるような事態すら、幾度となく、味わってきただろうと思われます。

 その体験の積み重ねが、子どもたちの好意の単純な表れをも、素直に受け入れられなくさせています。なにやら自分が死ぬことを愉しみにしているように、或いはカルヴェラたちとの戦いを、なにか面白い見世物とでも思っているかのように感じさせます。

 不愉快になっても、子どもたちを相手に、その不愉快さをぶつけるわけにはいきません。オライリーの口調は皮肉っぽくなります。

 子どもたちには、オライリーの皮肉は通じません。オライリーの皮肉な言葉を、言葉どおりの意味に受け取り、オライリーが喜んでくれたものと思って、喜んでいます。

 子どもたちは、自分たちの考えをオライリーが喜んでくれたことが、自分たちがオライリーの役に立てたことが、そのこと自体として、嬉しいのです。

 子どもたちは、勇敢な仕返しや、墓を綺麗に飾って死者を弔うことを望んでいるのではありません。単純に、オライリーの役に立ち、オライリーに喜んで貰いたいのです。

 その気持ちがオライリーにも伝わり、その表情が嬉しそうにゆるみます。

 おそらく、このような好意を抱かれた体験は、オライリーのこれまでの生活の中では、なかったことでしょう。

 ヴィンと村人が、山頂付近に姿を現します。

 ふたりは木の傍の岩陰に腰をおろして、敵手をうかがいます。

 ヴィンの息が荒くなっています。

 見えるか、と問う村人に、いいや、と、答えます。胸が波うっています。

 村人はしきりにヴィンに話しかけます。怖くて堪らないのです。手にはビッショリと汗を掻き、口はカラカラに乾いています。

 ヴィンは静かに相手になっています。

 村人は怖れを感じていることを、率直に口にします。子どもたちと違って、村人は、自分が怖れを感じていることを理解しています。

 怖れる「なにか」がなくては、怖れは生じません。その「なにか」を捉えてはじめて、その「なにか」に対する怖れが生じます。その「なにか」が、なんなのかよく分からず、そのゆえに怖れが生じる場合もあります。その場合にしても、その「なにか」を、「なんなのかよく分からない『なにか』」として、捉えています。

 子どもたちが怖れを感じないのは、怖れを生じさせる「なにか」を、捉えることができないからです。

 村人は、それを明確に「なに」と云うことはできないにしても、怖れを生じさせる「なにか」を捉えて、怖れを感じています。

 ヴィンは、こんなことなら、カルヴェラの好きにさせたほうがよかったか、と、問います。

 そのほうがよかったかもしれないけれども、どちらとも云えない、と云うのが、村人の答えです。

 カルヴェラに逆らわなければ、現在感じているような恐怖に襲われることもありません。

 そのかわり、カルヴェラの御機嫌を伺って、ビクビクしながら、物資を略奪されるままになっていなくてはなりません。

 どちらがマシかなどと云う答えは出せませし、そのような問い自体、無意味です。

 すでに戦端が開かれた以上、後悔は無意味です。

 村人も、カルヴェラたちと戦い始めたことを後悔しているわけではありません。後悔しているのかどうかすら、はっきり分からないのです。村人の怖れは、戦いを始めたことに対する村人の後悔を誘いません。

 村人の怖れが、戦いを始めたことに対する後悔を生じさせているわけではないことを確認できたところに、ヴィンの問いの意味があります。

 村人は、戦いを始めたことは後悔していませんが、カルヴェラたちに反撃されて、どんなことをされるかと思うと怖くて堪らず、さっきまでは自信タップリで、張り切って追い払ったのに、なぜいまでは怖くて堪らないのか、不思議に思います。

 村人は、自分が怖れを抱いていることや、その怖れの中身を認め、後悔するのではなく、さっきまで確信していた自信が消え去ったことに疑問を感じています。

 村人は、ただたんに、現在の怖れから逃れようとしているのではなく、その怖れを打ち消して、再び自信と張り切りを取り戻したいと望んでいるのです。

 自分の抱いている怖れと向き合い、それがなぜ生じたのかを考えることで、村人はそもそもこの戦いを始めた理由を再確認します。それによって、村のためなら死んでもかまわない、と云う決意が生じます。

 村人は、村のため、と云う、当初の理由を再確認することで、自分を支配している怖れを打ち消し、再び自信と張り切りを取り戻そうとします。

 そんな村人を、ヴィンは、「立派だよ」と評します。

 ヴィンも、撃ち合う前には、毎回、手に汗をかきます。村人の怖れを理解して、静かに話し相手にもなってやります。

 ヴィンも、村のためなら死んでもかまわないと云う村人のような気持ちになったことがありました。遥か昔のことです。ガンマンとしての厳しい生活を重ねるうちに、そんな気持ちを抱くこともなくなりました。

 村のためなら死んでもかまわないと決意する村人を、立派だよと評するヴィンの口ぶりからは、そう決意できる心性を羨む気持ちすら感じられます。 

 チコのところにも村人が来ます。チコが山の中で見つけた、村の娘です。

 娘はチコを気遣って、危ないことをしないでくれと頼みます。

 チコは山賊との戦いの最中、見張りのときに、女性と一緒にいるところを他の人に見られることを気にして、娘を返そうとします。

 娘は初めて会ったときに暴れたことを謝ります。

 娘は、チコを怖がったのではありません。父親を怖れていたのです。

 娘は父親に、何をされるか分からないから、ガンマンたちには近づかないよう、厳命されていたのです。その厳命を守らなかったときに生じる仕打ちが、娘を怯えさせていたのです。

 農民たちは、儘にならぬ大自然を相手にして生産活動に従事し、その生活を維持しています。大自然のなかにあって、最も力弱い動物である人間がその生存を維持するためには、互いに連携協力し、団結を硬くして、その生産力を維持向上させなくてはなりません。

 そのような共同体では──農耕主体、狩猟主体を問わず──、共同体員を統率する長の存在が必要になります。同様に、各家族においては、その家族の紐帯団結を強固にするために、家長の権限が強大になります。

 娘は家長である父親の判断を是とし、その権威に従っていました。娘の父親によれば、チコたちガンマンは、何をするか分からない無頼の徒でした。娘もその父親の判断を信じていました。しかし、実際の彼らは、安い賃金で雇われているにもかかわらず、村人のために、命懸けで戦う人々でした。娘の心中に父親の判断に対する疑問が生じます。娘は村人たちのために懸命に戦うガンマンたちの姿を見て、父親に教えられていた、ガンマンたちに対する自分の考えが誤りだったと考えます。カルヴェラたち山賊と、命の危険を顧みずに戦うチコに、娘は惹かれていきます。その行動は、クリスたちプロのガンマンたちから見れば、素人じみた無謀な行動でしょうけれども、戦いの実情を知らない若い娘の心をときめかせるには、充分なものなのでしょう。

 チコに会いに来ていることは、すでに父親にも知られています。いまや娘は、父親の怒りも仕置きも怖れていません。一途にチコの身を案じています。

 その娘の思いの強さに、チコはとまどいを覚えます。