田中総理

田中総理、と、云えば、大方の人は角栄氏を想起されるであろう。

しかしここで述べるのは、戦前に総理を務めた、田中義一という人物のことである。

山口県出身の陸軍大将で、いわゆる長州閥の代表的存在である。

大正十四(一九二五)年に政友会の第五代総裁となり、昭和二(一九二七)年の四月二十日から同四(一九二九)年七月二日まで、第二十七代・十六人目の総理大臣として、内閣を組織した。

この田中首相が、東北地方を巡遊したときのことである。

群れ集った聴衆の一人に田中首相は、気さくに声をかけた。

「やあ、どうかね。お父さんはお元気かね」

その男は恐懼極まって、

「あいにく、父は先年亡くなりました」

と、答えた。

田中首相は、

「やあ、それは残念じゃったのお」

と、いかにも残念そうな表情で、その男の肩に手をかけた。

後で秘書官が、

「総理はあの人のお父さんと懇意だったのですか」

と、問うと、

「いや、オラは知らんよ」

との返事。

秘書官は訝しげに、

「それにしては親しげに話しかけられておられたではありませんか」

「そりゃあキミ、息子や娘、女房をもたん者はおっても、父親をもたん者はおらんからのお。訊いてみただけのことじゃ」