今週は梅雨時のように蒸し暑く、寝苦しい夜が続いたが、今朝は一転して、いかにも秋寒の、本来のこの時季らしい涼しさとなった。
早いもので、今年も残すところ、あと3ヶ月である。
1日1日を精一杯打ち込んで、その日その日を一生懸命に生き続けていると、あるときふと、いつの間にか、多大なる時間が過ぎ去ってしまったことに気づく。
ましてや、毎日毎日、相も変らぬ献立の食事を摂ってばかりの身には、変化とか、時の流れとか云うものが、まるで感じられないのである。
献立:トースト(6枚切り×2枚)、半熟卵(2個)、プレーン・ヨーグルト、トマト・ジュース、バナナ
さば塩焼きは近所のスーパーで買ってきた惣菜である。
焼き魚は、後の手間を考えると、出来合いの総菜を買ってきた方がコスパがいい。味もそんなに悪くない、と、云うか、自分で焼く場合と、さして変わりがない。
“自分で焼く”で、思い出したが、むかし、こんな会話を交わしたことがあった。
わたい「魚は大好きなんだけど、自分で料理できないからなぁ」
女の子「〇〇さん(わたいの通り名)、お魚、料理できないんですか」
わたい「○○(その女の子の名)はできるんか?」
女の子「あたりまえですよ。簡単じゃないですか」
お解りだろうか?
これは、「“魚を料理する”とは、どう云うことか」に対する観念が、その女の子と、わたいとでは、違っていた、と、云うことである。
念のために、より詳細に述べると────、
“魚を料理する”
わたい:「魚を捌いて二枚もしくは三枚におろし、味付けをして、焼く(煮る、炒める、蒸す、等々)」
その女の子:「切身を焼く」
ちなみにその子の観念では、ムニエルや生姜煮や南蛮漬けや魚介スープなどを料理る場合は、“魚を料理する”とは、云わず、“~を料理る”と、云うらしい。
献立:麦飯(山葵昆布)、さば塩焼き(2切)、ブロッコリの塩昆布あえ